過去の礼拝メッセージの音声を配信をしています。

2026年5月17日
説教題 「復活の主の食卓」
聖書箇所 ヨハネによる福音書21章1~14節
説  教 安井 光 師


2026年5月10日
説教題 「最も大切な戒め」
聖書箇所 マルコによる福音書12章28~34節
説  教 安井 直子 師

 律法学者はイエス様に尋ねました。「あらゆる戒めのうち、どれが第一でしょうか。」当時のユダヤ人には613もの戒めがありました。その中で何が最も大切なのか人々は議論していたのです。イエス様はこう答えられました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なる神を愛せよ」「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」。

 第一の戒めは「神を愛すること」です。しかし私たちは、見えない神をどう愛したらよいのか分からなくなることがあります。けれども聖書はまず「神が私たちを愛してくださった」と語ります。神は、失敗し弱さを抱えた私たちをも大切にしてくださるお方です。その愛はイエス様が十字架にかかってくださったほど深い愛でした。だから「神を愛しなさい」という言葉は、冷たい命令ではありません。「わたしはあなたを愛している」という神の呼びかけへの応答なのです。私たちは礼拝し、祈り、聖書を読む中で、その神の愛を何度も思い起こします。そして神の愛を知る時、「主よ、私もあなたを愛したい」と願うようになるのです。

 イエス様は続けて「隣人を愛しなさい」と言われました。神を愛することと、人を愛することは切り離せません。隣人とは、自分の好きな人だけではありません。家族や友人、職場の人、時には苦手な人も含まれます。神が今、私たちのそばに置かれた人が隣人なのです。

 しかし人を愛することは簡単ではありません。傷つき、赦せないと思うこともあります。だからこそまず自分自身が神に愛されていることを知ることです。神は私たちに、「あなたはわたしの目に尊い」と語ってくださいます。その愛に支えられる時私たちは少しずつ他者にも優しくなれるのです。

 マザー・テレサは、貧しい人々に仕えながら、「この人の中にイエス様を見ています」と語りました。彼女を動かしたのは義務感ではなく、神に愛されている喜びでした。

 私たちにも、大きなことはできないかもしれませんが、落ち込んでいる人に声をかけること、誰かの話を聞くこと、祈ることはできます。その小さな愛の中に、神の愛が現れていくのです。イエス様は、「この二つにまさる戒めはない」と言われました。神を愛し、隣人を愛する―その歩みの出発点は、いつも神の愛です。神に愛されている者として、私たちも愛に生きる者とされたいと思います。


2026年5月3日
説教題 「ロトのピンチ」
聖書箇所 創世記14章1~24節
説  教 安井 満 師

 アブラハムの甥ロトは、ヨルダンの低地を選び、そこに移り住みました(13:11)。ロトがヨルダンの低地に移り住むことを決心したのは、ヨルダンの低地が主の園のように、またエジプトの地のように、隅々までよく潤っていたからでした(13:10)。

 よく潤って見えたのは、外側から見てのことでした。ロトがヨルダンの低地ソドムとゴモラに住むようになって知ったことは、その地域がエラムの王ゲドルラオメルの支配下にあるということでした。ソドムとゴモラの富のほとんどが、ゲドルラオメルに奪い取られていました。ゲドルラオメルに仕えていた五人の王は、十二年間続いた従属関係を破棄して、独立を願い戦争になりました(4、5)。しかし、ゲドルラオメルの連合軍に打ち負かされました。

 ソドムとゴモラの王は敗走しますが、何とロトが捕虜として連れ去られてしまいました(12)。ロトの生涯における大ピンチであります。ロトのピンチは、自業自得という面があります。ロトは生活の便利で暮らしやすい楽な道、繁栄を保証する道を選びました。これは人間として自然な方向でもあります。しかし繁栄を保証してくれる場所には貪欲な人間が群がり、権力闘争が繰り広げられます。

 時に一人の人が逃れてきて(13)、アブラハムに戦争の結果とロトが捕虜として連れ去られたことを伝えました(14)。甥のロトの身の上を案じたアブラハムは、訓練した318人の救出隊を組織してロトの救出に向かいます。ダンまで追って行き(14)、救出隊を二手に分けて挟み撃ちで夜襲を結構します。その結果、強力なゲドルラオメルの連合軍の隙を突くことになり(15)、連合軍は動揺し、遂に退却しました。アブラハムはロトを救出することができたのです。

 アブラハムは、わずか318人の救出隊でソドムとゴモラの王をはじめとする5人の小王ができなかったことを行い、大軍を撃破しました。凱旋したアブラハムを迎えたソドムの王は、「人を私に返し、財産はあなたがお取りください」(21)と申し出ます。謝意を物で示そうとしています。これと対照的な対応をしたのは、サレムの王メルキゼデクです。ソドムの王はアブラハムの勇猛果敢な戦いによる大勝利を讃えていますが、メルキゼデクはアブラハムに対して、「天と地の造り主、いと高き神にアブラムが祝福されますように。敵をあなたの手に渡された、いと高き神はたたえられますように」(19∼20)と。


2026年4月26日
説教題 「キリストの名によって歩きなさい」
聖書箇所 使徒言行録3章1~10節
説  教 安井 光 師

 イエスがなされた最大の御業は、罪人を救い神の子とすることです。見えるものに頼っていた人が、見えない神を礼拝し、感謝と喜びのうちに生きるようになることこそ、まことの奇跡であります。この箇所にも、そのような神の御業が示されています。

 ペトロとヨハネが祈るために神殿に上ったとき、「美しの門」に、生まれつき足の不自由な男が座り、施しを求めていました。彼は四十年以上歩けず、人々の助けに頼って生きていました。二人は彼を「じっと見つめ」、さらに「私たちを見なさい」と語りかけました。この言葉には、自分たちの内におられる神、共におられるキリストを見てほしいという思いが込められています。教会もまたそのように言える存在であることを主は願っておられます。

 男は施しを期待しましたが、ペトロは「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう」と言い、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と告げました。彼らは物質ではなく、キリストという最も尊い宝を持っていたのです(Ⅰペトロ1:3∼4、18∼19)。人は目に見える利益を求めがちですが、神ご自身を求めることは少ないものです。しかしキリストにおいて与えられるのは、朽ちない永遠の命という天の宝です。

 「イエスの名」とはイエスご自身を意味し、その力が男を立ち上がらせました。彼はたちまち癒やされ、躍り上がって歩き出しました。しかし真の奇跡はそれだけではありません。彼は神を賛美し、神殿の中に入り、礼拝する者へと変えられました。施しを乞う者から、神を礼拝する者へと新しくされたのです。

 この出来事は、私たち自身の姿でもあります。私たちもキリストによって罪を赦され、永遠の命を与えられた者です。そしてその恵みを証しする使命が与えられています。教会には罪の赦しを宣べ伝える務めが託されています。私たちは「イエスの名」という宝を携え、「立ち上がり、共に歩きましょう」と人々に呼びかける者です。

 ペトロもまた失敗を経験しましたが、キリストによって立ち直らされ、他の人を励ます者とされました。その変化は人々を驚かせました。同じように、私たちが困難の中でも感謝と喜びと希望をもって生きる姿は、人々の心を動かします。特別なことではなく、日々の信仰の歩みこそが証しとなるのです。

 見えるものではなく、見えない神の力によって、イエス・キリストの名により生かされる歩みを続けていきたいと思います。そしてその命を分かち合い、多くの人が神を礼拝する者へと導かれることを願います。


2026年4月19日
説教題 「見ないで信じる」
聖書箇所 ヨハネによる福音書20章19~29節
説  教 安井 光 師

 主イエスが復活された日の夕方、弟子たちはユダヤ当局を恐れ、戸を閉ざして身を隠していました。彼らの心には、迫害への恐れだけでなく、主を失った悲しみ、希望を失った絶望、主を見捨てた後悔がありました。しかしそのただ中に、復活の主イエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」と語られます。これは単なる挨拶ではなく、恐れと絶望を取り除く神の平安の宣言でした。弟子たちは主を見て喜び、平安に満たされました。

 主は弟子たちを慰めるだけでなく、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われ、聖霊を授けて、福音の証人として世に送り出されました。礼拝とは、主から平安と祝福を受ける場であると同時に、主の証人として遣わされる場でもあります。私たちもまた、復活の主に出会い、聖霊を受けて、この世へと遣わされているのです。

 しかしその場にトマスはいませんでした。彼は「この目で見なければ信じない」と言います。トマスは疑い深い人と見られますが、その姿は私たちの姿でもあります。見えないものを信じることは容易ではありません。しかし八日後、主は再び現れ、トマスに傷跡を示され、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語られました。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と告白するのです。

 ただ見て信じたのはトマスだけではありません。他の弟子たちも、復活の主を見て信じました。その意味で、トマスだけが疑い深かったのではありません。主は、そのような者たちにご自身を現され信仰へと導かれたのです。私たちも信仰の歩みの中で、生ける主が確かにおられると示され、「わたしの主、わたしの神よ」と告白する経験を与えられてきたのではないでしょうか。

 その上で主は言われます。「見ないで信じる人は、幸いである」と。「見ないで信じる」とは、根拠なく思い込むことではなく、神の御言葉に信頼することです(ヘブライ11:1)。アブラハムも、目に見える保証がない中で神の約束を信じ、従いました。信仰とは、見えるものではなく、神の真実な御言葉に立つことなのです。

 現代は「見なければ信じない」という実証主義の時代です。しかし主は、そのような世界にあって、「見ないで信じる」幸いに生きる者として私たちを遣わしておられます。復活の主は今も生きておられます。その主の御言葉を信じ、平安と聖霊をいただき、復活の証人として歩んでまいりましょう。


2026年4月12日
説教題 「神のものは神に」
聖書箇所 マルコによる福音書12章13~17節
説  教 安井 直子 師

 イエスを陥れようとする宗教指導者たちの策略と、それに対する主の見事な応答を通して、私たちの生き方の本質を示しています。祭司長や律法学者たちは、対立していたファリサイ派とヘロデ党を結託させ、「皇帝に税を納めるべきか」という問いを投げかけました。これはどちらに答えても不利になる巧妙な罠でした。

 しかしイエスは彼らの偽善を見抜き、デナリオン銀貨を示させ、「これは誰の肖像か」と問われます。そして「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と語られました。この言葉は単なる機転ではなく、信仰と生活の両面に関わる深い真理を示しています。

 まず「皇帝のものは皇帝に」とはこの世における責任を果たすことの大切さを教えています。私たちは社会の中で生きる者として、法を守り責任を担い、秩序を尊ぶことが求められています。信仰を理由に社会的責任を軽んじるのでも、逆に社会に迎合して信仰を失うのでもなく、両者のバランスの中で誠実に生きることが大切です。

 かしこの御言葉の中心は「神のものは神に返しなさい」にあります。銀貨に皇帝の像が刻まれているように、私たち人間は神のかたちに造られた存在です。さらにキリストの十字架によって贖われた私たちは、創造においても贖いにおいても神のものです。それゆえ、自分の人生や持ち物は本来自分の所有ではなく、神から託されたものなのです。

 それにもかかわらず、私たちは自分の時間や能力を自分のために使うのが当然だと考えがちです。しかしすべてが神のものであると知るとき、私たちはそれを管理する者として生きるように招かれます。この視点に立つ時、人生を自分で握りしめる不安から解放され、神に委ねる平安と自由が与えられます。

 神は強制的に取り立てる方ではなく、まずすべてを与えた上で、私たちにご自身へと立ち返るよう招いておられます。イエス・キリストは十字架によって私たちを買い戻してくださいました。私たちは誰のものかを問い直し、自分自身を神にお返しする歩みへと導かれたいと思います。「神のものは神に返しなさい」という御言葉に従い、日々の生活の中で神にささげる者として歩みましょう。


2026年4月5日
説教題 「死から復活されたイエス」
聖書箇所 ヨハネによる福音書20章1~18節
説  教 安井 光 師

 週の初めの日の朝早く、マグダラのマリアが墓を訪れると、石は取り除かれ、墓は空になっていました。驚いたマリアはペトロともう一人の弟子に知らせ、二人は急いで墓へ向かいました。先に着いた弟子は中に入らず、後から来たペトロが入ると、遺体はなく、亜麻布と頭の覆いだけが残されていました。二人はこの光景を見て復活を信じました。

 しかし弟子たちが復活の意味を十分に理解するのは後のことです。彼らは復活の主と出会い、聖霊によって御言葉が開かれる中で、十字架と復活の意味を悟っていきました。それでも、この時すでに空の墓を見て信じたことが、信仰の始まりでした。

 私たちの信仰も同様に、イエスの十字架と復活の両方を信じることにあります。十字架の死は信じても復活は受け入れがたいと感じる人もいますが、全能の神を信じるなら、死者をよみがえらせることも不可能ではありません。十字架を信じる者は、そのまま復活をも信じるよう招かれているのです。信仰は理屈を超えたところで、聖霊によって与えられるものでもあります。

 一方、マリアは墓の前にとどまり、悲しみの中で泣き続けていました。彼女はなおイエスの亡骸を求めていましたが、復活されたイエスはすでに彼女のそばに立っておられました。「マリア」と名を呼ばれたとき、彼女は初めてそれが主であると気づきました。イエスは彼女に、もはや以前と同じ仕方ではなく、十字架と復活に基づく新しい関係へと生きるよう求められたのです。

 マリアは人間的な愛情によってイエスに結びついていましたが、これからは復活の主を信じる信仰によって結ばれる必要がありました。目に見える存在としてのイエスではなく、死に勝利し今も生きておられる主に望みを置くことが求められたのです。

 イエスは復活して今も生きておられる救い主です。私たちはその姿を目で見ることはできませんが、聖書の御言葉と聖霊の働きを通して主を知り、信じることができます。実際、イエスを直接見た人々の多くが信じなかった一方で、見ていない多くの人々が信じてきました。今日に至るまで、無数の人々が復活の主を信じて救いにあずかっています。

 復活の主は今も生きておられ、私たちのただ中に臨在しておられます。今も私たち一人一人を呼び、御言葉を語りかけておられます。そしてその福音を託し、共に歩むよう招いておられるのです。私たちは信仰の目をもって復活の主を見つめ、その臨在の中で日々歩んでいきましょう。


2026年3月29日
説教題 「ゲッセマネの祈り」
聖書箇所 マルコによる福音書14章32~42節
説  教 安井 直子 師

 今日は年度最後の主日礼拝、受難週の朝です。十字架を目前にしてゲッセマネで祈られた主の姿から、主の語りかけを聴きます。ここには、主の深い苦しみと弟子たちの弱さ、そして御心に従われる主イエスの姿が示されています。

 過越の食事の後、主と弟子たちは賛美をささげ、オリーブ山へ向かわれました。その途上で主は「あなたがたは皆つまずく」と告げられます。これは人間の弱さを示す言葉です。ペトロは「決してそんなことはありません」と強く否定しましたが、主は彼の否認を予告されました。ここに、人は自分の決意に頼ろうとしながらも、試練の中で崩れてしまう現実が示されています。私たちもまた、「今度こそ」と思いながら続けられない経験を持っています。だからこそ主は、自分の強さではなく神により頼む歩みへと私たちを招いておられるのです。

 ゲッセマネに着くと、主は深く悩み、「死ぬほど苦しい」と言われました。そして「アッバ、父よ、この杯を取りのけてください。しかし御心のままに」 と祈られます。この杯とは罪に対する裁きです。罪なき主が私たちの罪を担い、その裁きを受けようとしておられたのです。その苦しみの中でなお、父なる神に従われたところに主の従順があります。

 一方で弟子たちは眠り込んでいました。イエスは「目を覚まして祈っていなさい」と言われても、彼らは三度とも眠ってしまいます。「心は燃えていても肉体は弱い」と言われた通りです。私たちも祈ろうと思いながら続けられない弱さを覚えます。しかし大切なのは、そのような弟子たちを主が見捨てなかったことです。主は彼らのそばで祈り続けておられました。私たちは自分の祈りによってではなく、主のとりなしによって支えられているのです。

 三度の祈りの後、主は「立て、行こう」と言われ、十字架へ進まれます。ここには迷いはありません。神への信頼に基づく従順が貫かれています。この従順によって私たちの救いは成し遂げられました。私たちは弱く、失敗する者ですが、そのために主が苦しみ、祈り、道を開いてくださったのです。

 「御心のままに」と祈ることは簡単ではありません。しかしそれはあきらめではなく、神への信頼です。主はすでにその道を歩まれ、今も私たちのためにとりなしておられます。この主に信頼し、自分の思いを委ねて歩む者とされていきたいと願います。


2026年3月22日
説教題 「御言葉に聴き従う」
聖書箇所 ルカによる福音書5章1~11節
説  教 佐藤 義則 師

 宣教の難しさを感じることがあります。しかし、人は神によって命の息を吹き入れられ、神のかたちに造られました。堕罪以後、神のかたちは大きく損なわれました。しかし、「群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せて来た」(1節)とあるように、今もすべての人の心にその片鱗は現存しており、「神がおられるならお会いしたい」「神の言葉を聴きたい」という心の叫びがあります。

 「話し終わると、シモンに、『沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい』と言われた(4節)。この主イエスの言葉は、漁師としてプライドを傷つけるものだったでしょう。ペトロは徹夜して漁をし、何も獲れず、失意のうちに網を洗っていました。「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした」(5節)。これはペトロの精一杯の応答の言葉でした。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とペトロは続けます。ペトロはどんな気持ちだったでしょう? なぜペトロはこのように言えて、その言葉に従えたのでしょうか。

 毎週礼拝で語られる御言葉と現実との間に、しばしば大きな開き、ギャップを感じていないでしょうか。ペトロの倍、それを埋めたものは何でしょうか。それは、ペトロの側にはありません。主イエスの側に、その原因と理由があります。主イエスが舟の上から語られた説教、主イエスの発せられた声、その眼差し、その語られた言葉そのもの、そこにペトロの心を震えさせ、心を奮い立たせ、従わないではおられない、そのように心を突き動かすものがあったのではないでしょうか。

 主イエスが言われたとおり、主の御言葉に聴いて従った時、おびただしい魚が網にかかり、網が破れそうになりました(6節)。私たちが御言葉に聴き従う時に、神の御業がなされるのです。「雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく、必ず地を潤し、ものを生えさせ、目を出させ、種をまく者に種を、食べる者に糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、空しく私のもとに戻ることはない。必ず、私の望むことをなし、私が託したことを成し遂げる」(イザヤ55:10~11)と主なる神は言われます。

 私たちの信仰は、全人格的な神への応答、神に従うという意志的応答です。信仰の成長は、御言葉経験によってもたらされます。御言葉経験は、ちょうど竹の節のようになって、私たちを主イエスの似姿に向けて、真っ直ぐに成長させ、私たちは主の似姿に変えられていきます。それが、私たちが信じ、大切にしてきた聖化、ホーリネスの恵みでもあります。


2026年3月15日
説教題 「成し遂げられた救い」
聖書箇所 ヨハネによる福音書19章17~30節
説  教 安井 光 師

 イエスは、ゴルゴダへご自分で十字架を背負って進まれました。ヨハネが「自ら」(17節)と記すのは、単に自分の十字架を担ったというだけでなく、イエスが自らの意志で進んで十字架に向かわれたことを示しています。鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、肉体は弱り果てていても、イエスは私たちの罪の重荷を担うために進んで行かれたのです。

 十字架の上には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と記された罪状書きが掲げられました。それはヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていました。過越の祭で多くの人がエルサレムに集まる中、この表記は図らずも、十字架につけられたイエスが全世界の王であり、すべての人の救い主であることを示すものとなったのです。また兵士たちがイエスの衣を分け合い、下着をくじ引きにしたことについて、ヨハネは「聖書の言葉が実現するため」であったと語ります。これは詩編22編の成就でした。イエスの苦しみは、旧約の時から神が示しておられた救いのご計画でした。

 十字架のそばには、母マリアをはじめ女たちとヨハネが立っていました。イエスは母に「見なさい。あなたの子です」と言い、ヨハネには「見なさい。あなたの母です」と言われました。これは単なる家族の世話の委託にとどまらず、十字架を土台として新しい神の家族、教会が生み出されることを示しています。

 やがてイエスは「渇く」と言われました。それもまた聖書の言葉の成就でした。イエスは、最後に「成し遂げられた」と言われ、十字架で息を引き取られました。これは敗北や挫折の言葉ではありません。神の救いのご計画が完全に成就したことを告げる、勝利の宣言です。イエスは世の罪を取り除く神の小羊として、ご自分を完全にささげ尽くされたのです。

 「成し遂げられた」のですから、そこに付け加えるものは何もありません。私たちの救いは、イエスの十字架によってすでに完成しています。にもかかわらず私たちは、ときに自分の行いや努力を加えなければ神に受け入れられないかのように考えてしまいます。しかし救いは、私たちの働きによるのではなく、キリストの十字架によって成し遂げられたのです。

 だからこそ私たちは、この十字架の恵みに感謝し、神を礼拝します。私たちの罪のために御子を与えてくださった父なる神の愛を覚え、命を惜しまず献げてくださったイエスに心からの礼拝をささげようではありませんか。そして、この成し遂げられた救いを証ししつつ歩んでまいりましょう。


2026年3月8日
説教題 「神の権威と人の権威」
聖書箇所 マルコによる福音書11章27~33節
説  教 安井 直子 師

 今日の聖書箇所には「権威」という言葉が四回出てきます。ここには、イエス様の権威と人間の権威が向き合う場面が描かれています。この出来事は、イエス様が十字架へと向かわれる最後の一週間の中で起こりました。エルサレム入城の翌日、イエス様は神殿で売り買いをしていた人々を追い出し、神殿を清められました。この出来事は、神殿を管理していた宗教指導者たちにとって、自分たちの権威を揺るがすものでした。

 そこで祭司長や律法学者、長老たちはイエス様のもとに来て、「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか」と問いただしました。しかし彼らは真理を求めていたのではなく、イエス様を訴える口実を見つけようとしていたのです。神殿を自分たちの領分だと考えていた彼らにとって、イエス様の行動は受け入れがたいものでした。

 この姿は、私たち自身にも重なるところがあります。私たちは自分の人生や心は自分のものだと考え、心の王座に自分が座っているのが当然だと思っています。しかしイエス様は私たちの人生の中に入って来られ、私たちの主となろうとされます。そのとき私たちは戸惑いや葛藤を覚えることがあります。しかしその揺さぶりの中で、私たちは自分の人生を神に委ねることを学んでいくのです。

 イエス様は彼らの質問に直接答える代わりに、「ヨハネの洗礼は天からのものか、人からのものか」と問い返されました。祭司長たちは答えに困り、結局「分からない」と答えるしかありませんでした。彼らが真理よりも自分たちの立場を守ることを優先していたことが明らかになったのです。

 聖書は、すべての権威が神によってイエス・キリストに与えられていると語っています。人間の権威は限られていますが、イエス様の権威は神から与えられた真の権威です。私たちもそれぞれの立場で小さな権威を委ねられて生きていますが、それは人を生かすために神から与えられているものです。

 そして聖書は、イエス様を受け入れる者には神の子となる特権が与えられると語っています。私たちは自分が人生の主人として生きるのではなく、イエス様を主として迎え、その権威のもとに歩む者とされています。日々の生活の中で祈りと礼拝を大切にしながら、主に従って歩んでいきたいと思います。


2026年3月1日
説教題 「この人を見よ」
聖書箇所 ヨハネによる福音書19章1~16節
説  教 安井 光 師

 ピラトはイエスが無実であることを知りながら鞭で打たせました。ローマの鞭打ちは非常に残酷なものでした。これほどの罰を与えれば、ユダヤ人たちも満足してイエスを釈放するだろうと、ピラトは考えたのです。兵士たちは、茨の冠を被せ、紫の衣を着せ、「ユダヤ人の王、万歳」と言ってイエスを嘲笑しました。ピラトは、「見よ、この人だ」とユダヤ人たちに言いました。それは本来、「この哀れな男を見よ」という意味でした。

 イエスには罪がなかったのです。罪なき神の御子が苦しみを受けられたのは、私たち罪人を救うためだったのです。私たちは皆、神から離れ、自分勝手な道を歩む罪人です。その罪のために、イエスは虐げられ、打たれ、不当な裁きを受けられたのです(イザヤ53:6∼8)。兵士たちが嘲笑したその姿こそ、まことの王、まことの救い主の姿だったのです。イエスは苦しみを担うことによって世を救う王であられたのです。

 祭司長たちや民衆は、「十字架につけろ」と叫びました。光として来られたイエスを人々は受け入れず、退けたのです(ヨハネ1:9∼11)。しかしその中で、神の救いのご計画は着実に進められていました。イエスの十字架は、人々の企みやピラトの判断によるものではなく、私たちを救うための神のご計画だったのです。

 ピラトは「見よ、あなたがたの王だ」と言いました。祭司長たちは「私たちには皇帝のほかに王はありません」と言い放ちました。本来、イスラエルの王は主なる神のみであるはずでした。民衆もまた、イエスを王として迎えながら(ヨハネ12:13)、苦しみを受ける姿を見てイエスを排斥するのです。口では神を王と告白しても、心の王座に主を迎え入れようとしなかったのです。

 ピラトもイエスに罪がないと知りながら、自分の立場を守るためにイエスを十字架につけるために引き渡しました。人は正しいと分かっていても従わない弱さを持っています。また自分が王となって自分を守ろうとします。そこに真の平安はないのです。

 「見よ、この人だ」。この言葉は私たちにも向けられています。神は私たちにイエスを指し示し、「見よ、あなたがたの王だ」と語っておられます。私たちの人生の王は誰でしょうか。私たちを真に守り、平安を与えることができるのは、私たちのために苦しみ、十字架で命を献げられたイエス・キリストただ一人です。このお方こそ、まことの神、まことの王、まことの救い主です。私たちはこのお方を信じ、心の王座にお迎えして歩む者とされたく願います。


2026年2月22日
説教題 「ヨルダン川を渡る」
聖書箇所 ヨシュア記3章1~17節
説  教 安井 光 師

 イスラエルの新しい指導者ヨシュアは民を導いてカナンに入ることになりました。ところが、目の前には彼らの進入を阻むようにしてヨルダン川が横たわっていました。通常は幅の狭い川でしたが、雨期の影響で岸一面に水を湛えていました。川には橋はなく、渡る術がありませんでした

 イスラエルはかつて紅海を渡ったことがありました(出エジプト14章)。エジプトを出発した矢先、紅海が目の前に現われ、彼らの進路を阻みました。後ろからはエジプトの軍勢が追ってきていました。主が紅海の水を二つに分けて下さったので、民はみな紅海を渡ることができました。ただ、この時は状況が違っていました。切羽詰まった状況にはなく、あえて川を渡らず手前で留まることもできました。けれども、彼らはその場所に留まらないでヨルダン川を渡るのです。それが主の示された祝福の道だったからでした。主はヨルダン川の向こうに祝福を備えておられたのです。

 イスラエルの民は、ヨルダン川を渡るために二つの備えをしました。一つは主の臨在を確認することでした(10節)。民は、祭司たちが担ぐ契約の箱の後に従って歩き、主に守られ、主に導かれて川を渡るのです。もう一つは、自らを主の御前に聖別することでした(5節)。川を渡り、新しい地に足を踏み入れるために、民は荒野の生活での失敗や不信仰を精算し、身も心も魂もすべてを主に明け渡すことが必要でした。ヨルダン川を渡るために必要なのは、主を信頼する〝信仰〟だったのです(ヘブライ11章)。

 イスラエルの民は主を信頼してヨルダン川に入りました。契約の箱をかく祭司たちの「足が水ぎわにひたると同時に…水は全くせきとめられたので」、民はみなヨルダン川を渡ることができたのでした(14-17節)。呟かず疑わず(出エジプト14:10-と対照)、信仰をもって進んだ時に奇跡が起きた(御業がなされた)のです。

 私たちの信仰生涯にも荒野がありヨルダン川があります。それは御国に入る前に遭う試練や困難のみならず、この世において経験できる祝福の前にある関門や関所のようなものかもしれません。主は私たちのために様々な祝福を用意しておられます。その祝福を受けるためにはただ待っているだけではなく、信仰による一歩を踏み出すことも必要です。主は御業をなすために、私たちを祝福するために、主体的な信仰、積極的な信仰姿勢を私たちにお求めになるのです。信仰をもって、主の御前に一歩踏み出しましょう。


2026年2月15日
説教題 「真理とは何か」
聖書箇所 ヨハネによる福音書18章28~40節
説  教 安井 光 師

 「真理とは何か」。この問いは、現代に生きる私たちにも向けられています。科学的真理、法律的真実、政治的正しさが語られてもなお、人の心には「真理とは何か」という根源的な問いが残ります。聖書は、イエスご自身が真理であると語り(14:6)、真理を証しするために来られたと告げています。

 イエスはユダヤ人たちに捕らえられ、ピラトの官邸に連れて来られました。ユダヤ人たちは異邦人の家に入ると身が汚れるとして中に入ろうとしませんでした。彼らは過越の祭の清さを守ろうとしながら、罪を取り除くために来られた神の小羊であるイエスを拒んでいたのです。それは真理から外れた態度でした。過越の祭は、小羊の血によって神が民を救われた恵みを覚える祭りでした。イエスこそ罪を赦し、人の心をきよめるために来られた救い主なのです。

 ピラトはイエスに「お前はユダヤ人の王なのか」と尋ねました。イエスは「私の国はこの世のものではない」と答えられます。イエスは力によって支配する王ではなく、神の恵みによって人を治める神の国の王として来られたのです。また「何をしたのか」という問いに対し、イエスは「真理について証しするために生まれ、そのために世に来た」と語られます。聖書のいう真理とは、神の救いのご計画がイエスによって明らかにされたことです。イエスご自身が真理であり、イエスに信頼する者は罪を赦され、神を知り、永遠の命にあずかるのです。

 ピラトは「真理とは何か」と問いながら、イエスに心を開こうとはしませんでした。彼はイエスに罪を見いだせないと知りながら、真理に従わず、群衆の要求に従ってイエスの代わりにバラバを釈放するのです。彼もまた自分は自由だと思いながら、罪と恐れに支配されていたのです。人は皆、罪の束縛の中にあります。イエスはすべての人を罪から解放するまことの王として来られたのです。

 「真理とは何か」。その答えは十字架にあります。使徒たちや百人隊長は、イエスの十字架に神の愛と赦しという真理を見いだしました(Ⅰコリント1:18、Ⅰヨハネ4:10、マタイ27:54)。十字架において、神が私たちを愛し、罪から救おうとされた真理が明らかにされたのです。主イエスは、私たちを罪の支配から贖い出し、神の国に生きる者とするために十字架で死なれ復活されたのです。「真理とは何か」という問いの答えは、真理そのものであるイエス・キリストにあります。私たちは主の御言葉に聞き従い、主を仰ぎ見ながら、真理のうちを歩んでまいりましょう。


2026年2月8日
説教題 「信仰の祈り」
聖書箇所 マルコによる福音書11章12~14、20~25節
説  教 安井 直子 師

 マルコによる福音書11章は、イエス様が十字架を目前にされた受難週の出来事を描いています。この一週間は主がご自身の命をもって福音を完成される、救いの物語の中心となる時です。日曜日のエルサレム入城、月曜日のいちじくの木と宮清め、火曜日の宗教指導者たちとの激しい論争、水曜日はべタニアでナルドの香油を注がれ、木曜日は弟子たちとの最後の晩餐とゲッセマネの園で祈り、そして金曜日に裁判を受け十字架へと向かう歩みの中で、今日の箇所もその重要な位置を占めています。

 月曜日の朝、イエス様は空腹を覚え、葉の茂ったいちじくの木に近づかれました。しかしそこには実がありませんでした。葉があるのに実がない姿は、外側は整っていても、神が求めておられる悔い改めや信頼の実を欠いたイスラエルの霊的現実を象徴しています。イエス様が木を呪われたのは感情的な怒りではなく、預言者的行為としての厳粛なメッセージでした。

 続く宮清めも同じ構図です。本来、祈りの家であるべき神殿が、人の利害と商売に支配され、神との生きた関係という「実」を失っていました。イエス様はこの現実を悲しみ、悔い改めへの最後の招きをなさったのです。

 翌朝いちじくの木が根まで枯れているのを見て、イエス様は弟子たちに「神を信じなさい」と語られました。裁きの物語の直後に祈りの教えが置かれていることは重要です。神は滅ぼすためではなく、回復へと導くために語られるのです。「山を動かす」祈りとは、現実を思い通りに変える力ではなく、どうにもならない現実の前で、神に信頼し続ける姿勢を指しています。山を動かすのは私たちではなく、十字架によって罪の山を沈めてくださった神ご自身です。

 またイエス様は、祈りと赦しを結びつけて語られました。赦さない心は祈りを内側から枯らし、葉はあっても実のない状態を生みます。赦しは感情ではなく、十字架に基づく決断であり、神に赦された者として生きる歩みです。

 受難のただ中で、イエス様は十字架の後の生き方を教えておられます。祈りとは神を動かす手段ではなく、自分を神に委ねる行為です。答えがすぐに見えなくても、御心を信頼して待ち続けること。その姿勢を、私たちも主の十字架を仰ぎつつ、日々の祈りの中で学んでいきたいのです。


2026年2月1日
説教題 「二つの告白」
聖書箇所 ヨハネによる福音書18章12~27節
説  教 安井 光 師

 イエスが捕らえられ、大祭司のもとで審問を受ける場面と、その合間に描かれるペトロの否認の出来事が、対照的に記されています。イエスは「ナザレのイエスはどこだ」と問われたとき、「私である」とはっきり答えられましたが(5節)、ペトロは「あなたもあの人の弟子ではないか」と問われると、「違う」と関係を否定しました。真実な告白と不真実な告白の対比を通して、ヨハネは、真実であられるイエスが、不真実な罪人を贖うために十字架へ向かわれたことを示しています。

 イエスは剣を取って抵抗しようとしたペトロを制され、自ら捕らえられました。アンナスやカイアファによる審問は、初めからイエスを処刑しようとする意図に基づく不正なものでした。イエスは弟子たちを守り、ご自身の教えが公然と語られてきた事実を示されますが、彼らは真理を聞こうとはしません。偽りの証言が重ねられる中、大祭司はついに「お前は神の子メシアなのか」と問い、イエスは「私がそれである」と答えられました(マルコ14:61∼62)。この告白によって、イエスは神を冒涜した者として断罪され、十字架につけられることが決定づけられます。イエスの告白は、ご自身が神の子メシアであることを、命を懸けて示す告白であり、私たちに命を与えるための告白でありました。

 一方ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白し、「この岩の上に教会を建てる」と主から約束を受けていました(マタイ16:13∼20)。しかし恐れの中で、三度イエスとの関係を否定しました。「私は違う」「弟子ではない」という言葉は、かつての信仰告白とは正反対のものでした。鶏が鳴いたとき、ペトロは主の言葉を思い出し、激しく泣いたのです(マタイ26:75)。

 私たちもまた、信仰を問われたときに、はっきりと主を証しできず、言葉を濁してしまう弱さを抱えています。ペトロの姿は、私たち自身の姿でもあります。しかし主イエスは、そのような不真実な者を見捨てることなく、十字架で罪を負われました。ペトロの失敗が福音書に記されているのは、彼の弱さをさらすためではなく、イエスの救いの恵みが明らかにされるためです。

 十字架によってペトロは赦され、立ち直らされ、やがて教会の基礎を担う証し人とされました。この恵みは私たちにも注がれています。たとえ何度つまずいても、主は赦し、癒やし、新しく立たせてくださいます(Ⅰペトロ2:22∼24)。イエスの真実な告白と、その間を埋める十字架の恵みを覚えつつ、主の証し人として歩ませていただきましょう。


2026年1月25日
説教題 「ヨシュアの任命」
聖書箇所 ヨシュア記1章1~9節
説  教 安井 光 師

 荒野の旅が終わり、遂にイスラエルの民は約束の地カナンの前まで来ました。ところが、民の指導者モーセはカナンに入る前に生涯を閉じたのです(申命記34:1-8)。モーセの労苦を思うと、彼がカナンに足を踏み入れることができなかったのは無念だったでしょう。でもモーセはとても幸せでした。モーセは神からの務めを忠実に果たしました。モーセの目は、カナンよりも素晴らしい天の故郷に向けられていたのです(ヘブライ11:13-16)。

 神はヨシュアをモーセの後継者として立てられました。ヨシュア(「主は救い」の意)は、モーセの従者として長く仕えてきました(出エジプト17章、民数記13-14章)。神はご計画によってヨシュアを選び、モーセに代わるイスラエルの導き手として育てておられたのです。ヨシュアは新しい指導者として、イスラエルをカナンに導いていくのです。働きはモーセからヨシュアにバトンタッチされましたが、神がイスラエルに与えられた約束(目標)もそのまま継承されたのです。

 ヨシュアは、課せられた責務の重さに恐れと不安を抱いたことでしょう。神はヨシュアを励まされ、勇気付けられました。神はヨシュアに対し、先祖たちに約束されたカナンの地を与えると語られました。モーセに約束したように与えると言われたのです。神はイスラエルのためにカナンの地を与えようと待ち構えておられ、彼らがそこに足を踏み入れさせすれば得られる。既に与えておられるのだから、信仰をもって進み、足で踏みしめてその地を自分のものにするように言われたのです(2∼4節)。

 カナンには大きな民・強い民が大勢いました。敵との戦いが待ち受けていました。自分の力でその地を勝ち取りなさいと、主は言われたのではありません。「私がモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない」と約束されたのです。モーセは偉大な指導者でしたが、彼が偉大だったからではなく、神が彼と共におられたので偉大な働きがなされたのです。ヨシュアの場合もそうなのです。

 「強く、雄々しくあれ…うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行っても、あなたの神、主があなたと共にいるからだ」。ヨシュアにこう語られた主なる神が、私たちと共におられるのです。信仰生涯にはさまざまな戦いがありますが、主が共にて私たちを支え、守り、助けて下さるのです。主の御言葉の約束を信じ、目標を目ざして前進してまいりましょう。


2026年1月18日
説教題 「剣ではなく杯を」
聖書箇所 ヨハネによる福音書18章1~11節
説  教 安井 光 師

 イエスが弟子たちと共にゲッセマネの園におられた夜、ユダに導かれた兵士や下役たちが、松明と武器を手にして主を捕らえに来ました。イエスは少しも動揺されませんでした。「ご自分の身に起こることを何もかも知っておられた」からです。主は、ユダの裏切り、苦しみ、十字架の死、弟子たちが散らされること、そして復活に至るまでを前もって知り、それらを受け入れておられました。それは単なる予知ではなく、父なる神の御心にゆだねる姿勢でした。

 ゲッセマネの園で主は、「この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈られましたが、「私の思いのままではなく、御心のままに」と祈られました(マタイ26:39、42)。イエスは父がお与えになる十字架の杯を飲む決断をされたのです。そのとき主の心には平安が与えられ、暴挙と悪意に満ちた者たちの前に毅然と立つことができました。私たちは将来のことを知りませんが、主はすべてをご存じです。だからこそ、神の計画が災いではなく、平安と希望を与えるものであると信じ、主に委ねることができるのです(エレミヤ29:11、ローマ8:28)。

 イエスは逃げ隠れすることなく自ら進み出て、「誰を捜しているのか」と問い、「私である」と答えられました。この「エゴー・エイミ」という言葉は、永遠なる神ご自身を示す表現です。その言葉に圧倒され、主を捕らえようとした者たちは後ずさりして地に倒れました。イエスこそ、この出来事を支配しておられるお方でした。主は、ご自分を捕らえようとする一団の中にあって、弟子たちを守るため、自ら盾となって彼らを去らせようとされました。主は良い羊飼いとして、羊である弟子たちのために命を捨てられるのです。

 ペトロは剣を抜き、必死に主を守ろうとしました。しかしイエスは、「剣を鞘に納めなさい。父がお与えになった杯を、飲むべきではないか」と言われました。ここで言われる剣とは、武力だけでなく、自分中心の思いや力を意味します。主はそれを取らず、神の救いのご計画という杯を選ばれました。神の救いは、人の剣によって勝ち取られるものではなく、神の御心を受け入れることによって実現するのです。

 イエスは十字架の杯を飲み干され、罪と死と悪魔に対する勝利を成し遂げられました。私たちは試練や困難に直面しても、剣を振り回す必要はありません。主が私たちを守り、すでに勝利しておられるからです。自分の力や思いに頼るのではなく、すべてを知っておられる主に信頼し、主にお任せしつつ歩んでまいりましょう。


2026年1月11日
説教題 「大牧者イエスの祈り」
聖書箇所 ヨハネによる福音書17章1~26節
説  教 安井 光 師

 ヨハネ17章は、主イエスが十字架を前にして弟子たちのためにささげられた祈りです。主が説教の後に祈られたように、この祈りは私たちのための執り成しの祈りであり、まことの大祭司、大牧者としての祈りです。その内容は三つに分けることができます。

 第一に、主イエスは永遠の命を与えるために祈られました(1∼5節)。主は天を仰ぎ、「父よ」と親しく呼びかけ、御自身を通して神の栄光が現されることを願われます。その栄光は、十字架という人間の目には敗北に見える出来事を通して、神がどれほど深い愛をもって罪人を救おうとしておられるかが示されることでした。神は御子を信じる者に永遠の命を与えると約束されました(ヨハネ3:16)。永遠の命とは、ただ死後に続く命ではなく、まことの神とイエス・キリストを「知る」、すなわち愛と信頼の交わりの中に生きる命です。主イエスはその命を与えるために御業を行い、ついに十字架と復活によって神の栄光を現されたのです。

 第二に、主イエスは弟子たちを守り、聖別するために祈られました(6∼19節)。弟子たちは世から選ばれ、神の御名を示された者たちでした。主は、御自身が去った後に弟子たちが苦難や迫害に遭うことを知りつつ、「悪い者から守ってください」と父なる神に願われます。同時に、「真理によって彼らを聖別してください」と祈られました。聖別とは特別な存在になることではなく、神のために生きる者として選び分けられることです。この祈りは、主に贖われたすべてのクリスチャン一人一人に向けられています(テトス2:14、Ⅰペトロ2:9∼10)。

 第三に、主イエスは教会の一致のために祈られました。弟子たちの宣教を通して主を信じるようになる人々、すなわち全世界の教会が一つとなることを願われたのです(20∼26節)。その一致とは、考えや性格が同じになることではなく、同じ主を見上げ、同じ愛に生きることによる一致です。私たちは聖霊によって結ばれた一つの体、キリストの体として生かされています。主イエスの心を我が心とし、互いに愛し合うとき、教会は一つとされます(ヨハネ13:35、フィリピ2:1∼5)。

 この祈りは、今を生きる私たちのための祈りです。主は試練のない人生を約束されたのではなく、困難の中でも守られ、支えられ、主の証人として生きることができるように祈られました。大牧者イエスは今も天において私たちのために祈っておられます。その祈りに支えられ、この週も歩ませていただきましょう。


2026年1月4日
説教題 「私の家は祈りの家」
聖書箇所 マルコによる福音書11章15~18節
説  教 安井 直子 師

 イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城されたとき、人々は棕櫚の枝を敷き、「ホサナ」と歓声を上げて迎えました。人々は自分たちを救う王としてイエスに期待し、熱狂して迎えたのです。しかしその翌日、イエスがなさったことは人々の期待とはまったく異なるものでした。

 イエスは弟子たちと共に神殿に行き、まず「異邦人の庭」に足を踏み入れられました。そこは、神を慕い求める異邦人が唯一祈ることを許された大切な場所でした。しかし、その場所は本来の祈りの場としての姿を失い、動物を売る者や両替人であふれ、市場のような騒がしさに満ちていました。礼拝のための制度が、人々の信仰心につけ込んだ不正な商売の場へと変わり、祭司たちまでもが利益に関わっていたのです。

 祈りを求めて集った人々、特に異邦人たちは、静かに神と向き合うことすらできませんでした。その光景を前に、イエスは売り買いをする者たちを追い出し、両替人の台を倒されました。そしてイザヤ書の言葉を引用し、「『私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」(17)と厳しく語られたのです。

 イエスは商売や犠牲制度そのものを否定されたのではありません。それらが神を礼拝するという本来の目的を失い、人間の欲のために用いられている現実を正されたのです。特に、「すべての民の祈りの家」という言葉には、神の救いがすべての人に開かれているという大きなご計画が示されています。その祈りの場が奪われていることに、イエスは深い悲しみと怒りをもって立ち向かわれました。

 この出来事は、私たち自身への問いかけでもあります。教会は、特別な人のための場所ではなく、誰もが神の前に招かれる祈りの家です。しかし私たちもまた、知らず知らずのうちに、教会を「自分たちの居心地のよい場所」にしてしまってはいないでしょうか。弱さを抱える人、初めて来る人が、心から祈れる場となっているでしょうか。

 イエスが神殿を清められたのは、人を遠ざけるためではなく、神のもとへと近づけるためでした。今も主イエスは私たちを招いておられます。「私の家は、すべての民の祈りの家」。この御言葉に応え、新しい年も私たちは共に祈り、共に歩んで参りましょう。


2026年1月1日
説教題 「あなたがたは私の証人」
聖書箇所 イザヤ書43章10~12節
説  教 安井 光 師


2025年12月28日
説教題 「神が備えられた救い」
聖書箇所 民数記21章4~9節
説  教 安井 光 師

 イスラエルの民は、約束の地カナンに入るまで40年間荒野での旅路を続けました。世代が替わり、若い人々が大多数を占めるようになっていましたが、彼らはカナンに向かう荒野の道が途中で耐えきれなくなり、神に向かって呟いたのです(4∼5節)。この呟きは、かつてエジプトから救い出されて程なくして、イスラエルの民から発せられた呟きと同じものでした(出エジプト16:2∼3)。イスラエルの民はメリバ(「争い」の意)において飲み水が無くなったことで呟いたことがありました(20:2∼、出エジプト17:1∼)。世代は替わっていましたが、出エジプト直後もカナン入国前も神に呟く性質は全然変わっていなかったのです。

 イスラエルの民の姿は、私たち人間の姿・信仰者の姿を表わしています。神の恵みを受け、神の守りの中に歩みながらも、思うようにいかないことがあるとすぐ呟いてしまう。約束の場所を目指し人生の旅路を進む中で、困難や問題が起り、道を進むのが苦しく堪えがたくなると、神を呪い、人生を呪うような言葉を吐いてしまう。このようなことは、イスラエルの民に限られたことではなく、すべての人に当てはまります。「呟き」とは、神への疑いの思い、不信仰から出てきます。ただ神を意識して呟いているわけではなく、むしろ無自覚・無意識のうちに独り言を言うように呟いてしまうのではないでしょうか。

 神はイスラエルの呟きに対して怒りを発せられました。蛇を民の中に送り、彼らを打たれました(6節)。民は罪を悔い改め、モーセは神に執り成しの祈りをささげました。神は民のために救いを備えられました。青銅の蛇を造ってそれを竿の先にかけ、それを仰ぎ見た者は死を免れて生きることができたのです(7∼9節)。神は私たちのためにも救いの道を備えてくださいました。それはイエス・キリストの十字架による贖いです。モーセが荒野で青銅の蛇を上げたように、神は御子イエスを十字架で私たちの罪の犠牲として上げられたのです。御子を信じる者は滅びないで永遠の命を得るという救いを神は備えてくださったのです(ヨハネ3:14∼16)。

 私たちは主イエスの十字架を信じ仰いで救われました。信仰生活の中心に十字架がなければなりません。荒野(試練)を通り、耐えきれなくなる時に俯いて呟くのではなく、主イエスの十字架を仰ぎ見る必要があるのです。主は私たちの進む信仰の道のりにおいて常に十字架を掲げておられ、これを仰ぎ望め、私があなたを救う者だと言って導かれるのです。


2025年12月21日
説教題 「グッドニュース」
聖書箇所 ルカによる福音書2章1節~21節
説  教 安井 光 師

 クリスマスは、「神に栄光、地には平和」と、神の愛と救いが示された出来事です。それは「すべての人に与えられた大きな喜び」、グッドニュースです

 主イエスは、ローマ帝国の住民登録という歴史の動きの中で、ベツレヘムにお生まれになりました。ヨセフは身重のマリアを伴って旅をし、ベツレヘムに到着しますが、泊まる場所がなく家畜小屋で出産します。救い主の誕生は、決して華やかでも祝福に満ちた環境でもありませんでした。しかしその幼子こそ、旧約聖書を通して神が約束してこられたメシアでした

 天使は「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げました。これは特定の誰かではなく、私たち一人一人のための出来事です。神の約束が、現実の出来事として成就したのです(マタイ1:22∼23)。クリスマスとは、神ご自身が私たちのもとを訪れ、共に生きるために来てくださった日なのです(ヨハネ1:14)。救い主は、私たちの罪と苦しみを知り、それを喜びへと変えるために来られたのです。

 救い主誕生の知らせが最初に告げられたのは羊飼いたちでした。彼らは人口調査の対象にもならず、人々から蔑まれる存在でした。神は彼らを最初の証人として選ばれました。天使が告げた知らせは「大きな喜び」であり、「すべての民のため」のものでした。福音とは、特別な人のためのものではなく、すべての人に開かれた喜びの知らせなのです。

 現代の世界にも、戦争や経済不安、災害など、暗いニュースがあふれています。人の心は、良い知らせよりも悪い知らせに引きずられやすいものです。しかし、「救い主がお生まれになった」という知らせは、どのようなマイナスの力にも打ち消されることのない喜びです。まことの喜びは、天から与えられるのです。神が御子を私たちに与えてくださったことこそ、揺るがない喜びの源なのです。

 羊飼いたちはこの良き知らせを聞き、実際に救い主に会いに行き、飼葉桶に寝かされた幼子イエスを見ました。彼らは与えられた喜びを人々に知らせました。喜びは受け取ってこそ自分のものとなり、内にとどまらず外へと溢れ出ていきます。伝道もまた、この喜びを他者に分かち合うものなのです。

 羊飼いたちは、救い主に出会った後、元の生活に戻り、神をあがめ、賛美しながら歩み続けました。神は私たちにも同じ「大きな喜び」を与えてくださっています。救い主イエスを心に迎え、この喜びに生き、その喜びが周囲の人々へと広がっていくことを心から願います



2025年12月14日
説教題 「子ロバに乗るイエス」
聖書箇所 マルコによる福音書11章1~11節
説  教 安井 直子 師


 アドベント第三週主日において、イエス・キリストがどのような救い主として来られたのかを、エルサレム入城の出来事から学びましょう。アドベントは単にクリスマスを待つ期間ではなく、神が約束された救いがどのように実現し、今も私たちの人生に働いているのかを覚え、心を整える時であることが語られます。

 イエスはエルサレムを目前にし、二人の弟子を遣わして子ろばを用意させました。「主がお入り用なのです」という言葉通り、弟子たちが行くと、すべてはイエスの言われた通りに進みます。この出来事は、救いのご計画が偶然ではなく、神の確かな導きの中で進められていることを示しています。主が必要とされる時、人の心は動かされ、御業は備えられていくのです。

 イエスが子ろばに乗って入城された姿は、ゼカリヤ書に預言された「謙遜な王」の成就でした。王であるなら軍馬に乗るのが常識である中、イエスは力や武力ではなく、へりくだりと従順をもって来られました。ここで示される謙遜とは、弱さではなく、神の御心に自らを委ねる姿勢です。イエスは、人を支配する王ではなく、愛によって導く王として来られたのです。

 群衆は「ホサナ」と叫び、イエスを歓迎しましたが、その期待はローマの支配を打ち破る政治的救いに向けられていました。しかしイエスがもたらす救いは、外側の問題を力で解決することではなく、罪からの解放と神との和解という、より根源的なものでした。人々の期待はやがて失望へと変わりますが、神の救いの計画は人の思いに左右されることなく進められていきます。

 イエスは十字架に向かい、私たちの罪を背負って死なれ、復活によって永遠の命への道を開かれました。これは、外側の状況が変わる前に、まず人の心を変える平和であり、神との断絶を回復する真の平和です。この平和は、力ではなく、愛の犠牲によって成し遂げられました。

 さらに「主がお入り用なのです」という言葉は、子ろばのような小さな存在をも主が用いられることを示しています。イエスは今も、私たち一人ひとりを御業のために招いておられます。アドベントは、自分自身を主に献げ、「どうぞお用いください」と応答する時です。謙遜な王イエスを心に迎え、平和を運ぶ者として歩むことへと、私たちは招かれているのです。


2025年12月7日
説教題 「喜びに変わる」
聖書箇所 ヨハネによる福音書16章16節~33節
説  教 安井 光 師

 イエスは「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなる」と語られ、十字架の死を予告されました。弟子たちは、実際にイエスが死なれた時、深く泣き悲しむこととなります。しかしイエスは「あなたがたの悲しみは喜びに変わる」と約束されました。それはイエスが復活され、再び弟子たちの前に現れられるからでした(ヨハネ20:20)。弟子たちの悲しみも、主の復活の命によって喜びに変わるのです。

 さらにイエスは、出産の痛みを用いて語られます(21節)。陣痛の苦しみは激しく逃れられないものですが、子どもの誕生の瞬間、その痛みは大きな喜びに包まれます。弟子たちも迫害や孤独、喪失に苦しみますが、その苦しみは無意味ではなく、主が備える喜びへとつながるのです。

 「私は再びあなたがたと会う」との言葉には、復活の主に会う約束と、再臨の主に会う約束の両方が含まれています。使徒パウロもこの希望を抱き、「主にあっていつも喜びなさい。…主は近い」と語りました(フィリピ4:4∼5)。主の再臨の約束は、どんな状況にあっても喜びを失わない力となります。

 イエスはまた、弟子たちがご自身の名によって父なる神に祈るよう導かれました(23節)。私たちは聖霊が与えられ、真心から「天のお父さま」と呼び、イエスの名によって願う者とされています。その祈りに神は答えてくださり、私たちはすでにこの世にあって喜びを経験できるとイエスは約束しておられるのです。

 弟子たちはこの時、まだイエスの語る意味を理解できず、やがて散らされ、イエスを残して逃げ去ります(32節)。しかしイエスは「私は独りではない。父が共にいてくださる」と言われ、十字架の苦しみの中でも神の平安を得ておられました。イエスは私たちが神と和解し平和を得ることを願い、十字架で命をささげてくださったのです。

 イエスは「あなたがたは世では苦難がある」と言われます。私たちもこの世で悲しみや試練を避けることはできません。しかしイエスは「勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」と宣言されます。復活の勝利こそ、私たちの悲しみが喜びに変えられる根拠です。

 イエスの語る「しばらくすると」「その日に」とは、神の時間を指します。悲しみも苦しみも永遠ではなく、必ず終わりがあり、主が喜びに変えてくださるのです。暗い夜にも夜明けが来るように、主は闇を照らし、私たちを喜びへ導かれます。主の約束を信じて歩みましょう。

2025年11月30日
説教題 「メシア預言」
聖書箇所 ゼカリヤ書9章9~10節
説  教 安井 直子 師

 アドベント第一主日を迎えました。アドベントは「到来」「現れ」を意味し、私たちの救い主イエス・キリストが来てくださったことを思い起こしつつ、再び来られる主を待ち望む時です。今日の聖書箇所はゼカリヤ書9章9–10節に記された「メシア預言」です。アドベントを迎える私たちは、救い主の到来を待ち望みながら、この預言がどのようにイエス・キリストによって実現したのかをあらためて心に刻みたいと思います。

 預言者ゼカリヤは、「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ」と呼びかけました。これは、神がご自身の民に対して「喜びなさい」と命じるほどの確かな救いが始まろうとしているという宣言です。その理由は、「あなたの王が来られるから」です。この王は正しく、しかも救いを携え、驕り高ぶる支配者ではなく、「ろばに乗って」来られる謙遜な王だと預言は語ります。

 人々は力強い王を待っていましたが、神は人の期待とは違う姿で救い主を送られました。イエス様がエルサレムに入城されたとき、まさに預言どおり、ろばに乗って来られたのです。その姿は、武力によってではなく、へりくだりと愛によって世界を治めるメシアの姿でした。

 ゼカリヤの預言はさらに、「戦車を絶ち、弓を断ち、諸国に平和を告げる」と語ります。イエス・キリストはまさに平和の王であり、敵を力で制するのではなく、十字架でご自身の命を捧げる愛によって人類を神に和解させてくださいました。その愛は今も私たちを包み、壊れた心を癒し、希望を与える力です。

 アドベントは、単なる「待つ期間」ではありません。神の救いがすでに始まっていることを確認し、その恵みの中で生きることを思い起こす時です。私たちは今、不安や争い、先の見えない状況の中で暮らしていますが、イエス様が平和の王であることを思うとき、私たちの心にも静かな光が差し込みます。

 この方は、私たちが弱さや孤独の中にあっても見放さず、そっと寄り添う王です。力ある者ではなく、小さくされた者、涙する者のそばに立ってくださる王です。だからこそ私たちは、この王を信頼し、今日の生活のただ中でその平和を実践する者とされていきたいと思います。救い主は宮殿ではなく飼い葉おけに、小さく静かに来られました。それは弱さに寄り添うためです。だからアドベントは、心を静め、小さな光に気づく時なのです。今も預言は語ります。「あなたの王が、あなたのところに来る。」恐れず、この王を心に迎えましょう。

2025年11月23日
説教題 「主が共におられるので」
聖書箇所 民数記13章25節~14章10節
説  教 安井 光 師

 イスラエルの民は約束の地カナンの目前に来ました。十二人の偵察隊が40日間土地を調査し、大きな果実を携えて戻り、「まことに乳と蜜の流れる地でした」と報告しました。主は今日も、信じる者のために天の御国という永久の住まいを備えておられます。主イエスは「あなたがたのために場所を用意する」(ヨハネ14:2)と約束され、使徒ヨハネはその素晴らしさを証ししています(黙示録21章)。

 ところが偵察隊は喜びの報告の後、カナンの住民は強大で町は堅固であり、とても勝てないと告げ、悪い噂を広げました。民は恐れに囚われ、「エジプトへ帰ろう」とまで叫び、夜通し泣きました。現実の困難を思えば理解できる面もありますが、主は彼らに信仰を求めておられたのです。

 ただし偵察隊全員が不信仰に陥ったのではありません。ヨシュアとカレブの二人は信仰の視点から民を励まし、「ぜひ上って行くべきです。そこを手に入れましょう」と語りました。さらに、「私たちには主が共におられます。彼らを恐れてはなりません」と語り、民を励ましました。信仰とは、現実を見ないことではありません。主がどのように見ておられるかを思いつつ、現実の中で主に目を注ぐことです。トリックアートが見る角度によって全く違って見えるように、十二人は同じものを見て、十人は恐れを、二人は主への信頼を見たのです。

 民は二人の言葉を受け入れず、石で打とうとしました。主はイスラエルの不信仰を怒られ、御言葉に従わなかった者たちは約束の地に入れず、イスラエルの民は40年間荒野を放浪することになりました(14:21∼)。私たちの信仰生活も荒野の旅に重ねられることがありますが、イスラエルの不信仰を仕方ないと安易に自分に当てはめるべきではありません。ヘブライ書の著者はこの出来事を踏まえつつ、「福音を信仰によって聞く」者こそ安息に入ると語ります(ヘブライ4:1∼3)。ヨシュアとカレブがそうであったように、私たちも主の御言葉を信仰をもって受け取り、主が約束しておられる安息へと入らせていただきましょう。

 「私たちには主が共におられます」。ヨシュアとカレブが語ったこの励ましの言葉は、今の私たちにも与えられています。主が共におられるからこそ、私たちは困難を乗り越え、戦いに勝利し、約束の地へと進むことができます。恐れに心を支配されるのではなく、主を信頼し、主の御言葉に従って前進していきたいと思います。主は必ず道を開き、私たちを備えられた祝福へと導いてくださいます。

2025年11月16日
説教題 「助け主と共に生きる」
聖書箇所 ヨハネによる福音書16章1~15節
説  教 安井 光 師

 私たちは皆、イエスの証し人として生きるように召されています。しかし日本社会において信仰を公にし、イエスを証しして生きることは容易ではありません。迫害や孤独を伴う歩みがあります。主イエスは私たちがつまずかないように、弟子たちが直面する困難を前もって告げ、同時に「助け主」である聖霊が共にいて助けてくださると約束されました。

 イエスは「この世はあなたがたを憎む」と予告され、会堂から締め出されるほどの迫害を受けることも語られました。使徒言行録に記される初代教会の迫害はその成就です。しかしイエスが前もって語られたので、弟子たちは覚悟を与えられ、恐れの中にも希望を持つことができました。ペトロも迫害の只中で「火のような試練を驚き怪しむな」と語っています(Ⅰペトロ4:12∼)。主の言葉が彼を支えていたのです。

 私たちも家族や友人の救いのために祈る中で、拒絶や冷たい態度に心が痛むことがあります。ある姉妹は夫から「キリストを取るか私を取るか」と迫られましたが、祈りつつ仕え続けた結果、夫も信仰へ導かれました。主は私たちの痛みを知っておられます。

 イエスは「私が去って行くのはあなたがたのためになる」と語られ、天に昇られて後に聖霊が遣わされました。聖霊が来られることで弟子たちは真理を悟り、大胆な証し人へと変えられます。ペンテコステには三千人が救われ、福音は世界に拡がりました。もしイエスが去られず聖霊が来られなかったなら、福音は広がらず、日本にも届かなかったでしょう。イエスの昇天は、実に祝福の始まりだったのです。

 「弁護者=助け主(パラクレートス)」である聖霊は、私たちの傍らに立ち、励まし、支え、倒れそうな時に立たせてくださる方です。罪人の友であり、戦いの中で勝利へ導かれるお方です。聖霊は、復活の主イエスご自身の霊として、世の終わりまで共におられるのです。

 聖霊は「罪・義・裁き」について世の誤りを明らかにします。罪とはイエスを拒むこと、義とは十字架と復活によってイエスが神の子であると証明されたこと、裁きとはサタンがすでに敗北したことです。これらを悟らせるのが真理の霊である聖霊です。

 弟子たちは当初イエスの語ることを理解できませんでしたが、聖霊によって真理に導かれ、確信を与えられました。私たちも同じです。聖霊が心に確信を与えてくださる時、恐れの中でも主を証しして生きる力が与えられます。助け主なる聖霊は今日も私たちを導き、支え、証し人として立たせてくださいます。

2025年11月9日
説教題 「一緒に城壁を直そう」
聖書箇所 ネヘミヤ記2章1~8、20節
説  教 安井 直子 師

 昔、イスラエルの国は戦争に負け、多くの人が遠いバビロンに連れて行かれました。長い年月のあと、少しずつ人々はエルサレムに帰れましたが、町は荒れ、城壁は壊れ、門は焼かれたままでした。ネヘミヤはそのころ、まだ外国に残り、王さまの大切な仕事をしていました。王からとても信頼されていたのです。

 エルサレムの様子を伝える人たちの話を聞いたネヘミヤは深く悲しみ、何日も泣きながら神さまに祈りました。「神さま、どうか私たちを助け、罪をゆるし、もう一度あなたの民として立ち上がらせてください」。ネヘミヤの祈りは自分のためではなく、みんなのためのものでした。

 ある日、王さまはネヘミヤの顔を見て「どうしたのだ?元気がないようだが」と声をかけました。そのときネヘミヤは勇気を出して王さまに言いました。「エルサレムの町は壊れたままです。城壁を立て直すために行かせてください」。王さまは「よろしい、それでは行って来なさい」と言い、材料や手紙も整えて送り出してくださいました。神さまはネヘミヤの祈りに応え、道を開かれたのです。

 エルサレムに着いたネヘミヤは夜、ロバに乗って城壁のまわりを見て回り、心に誓いました。「何としても神さまの町を立て直す」。翌日、ネヘミヤは人々を集めて言いました。「町は荒れていますが、神さまが私をここに送ってくださいました。神さまの助けを受け、みんなで城壁を建て直しましょう」。人々は勇気をもらい、「そうだ、立ち上がろう」と応えました。こうして多くの人が協力し、神さまに守られながら工事を始めました。

 神さまは今も、祈る人、考える人、励ます人、手を動かす人、それぞれを用いて働かれます。教会でも家庭でも学校でも、みんなで助け合うとき、神さまは喜ばれます。神さまは「一人の力」ではなく、「みんなで一緒に働くこと」を望んでおられます。壊れて弱った場所にも、神さまは「そのままで良い」とは言わず、「もう一度立て直そう」と呼びかけます。そして、回復の中心には祈りがあります。ネヘミヤは悲しいときも、王さまの前でも、働きの途中でも祈りました。私たちも短く祈れます。「神さま、助けてください」「神さま、知恵をください」と。小さな祈りでも神さまは聞いてくださいます。私たちも、ネヘミヤのように立ち上がりましょう。家族を助けたり、友だちを励ましたり、教会で奉仕したり、兄弟姉妹のために祈ったり。小さな一歩が、神さまの大きな働きにつながります。神さまは今日も、私たちを用いて、ご自身の栄光を現してくださるのです。