過去の礼拝メッセージの音声を配信をしています。

2026年10月4日
説教題 「心の割礼」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙2章17~29節
説  教 安井 光 師


2026年9月27日
説教題 「天国への備え」
聖書箇所 ヨハネによる福音書14章1~6節
説  教 安井 光 師

 私たちは人生の中で、結婚、出産、入学、受験、就職、災害、老後など、様々な「備え」をします。しかし、もっと大切な備えがあります。それは「死」に対する備えです。桑原教会の召天者たちは、身の回りの整理や財産のことだけではなく、「天国への備え」をして地上の生涯を歩まれたのであります。

 ヨハネ 14 章は、イエスが十字架で死なれる前夜、弟子たちに語られた御言葉です。イエスが去って行かれることを知った弟子たちは、心を騒がせていました。私たちも人生の中で様々な不安や恐れを抱きますが、その根底には「死」の問題があります。死とは、自分の命だけでなく、これまで築いてきた人生、所有してきたもの、人との関係、これから経験するはずだった未来まで失う「究極の喪失」だからです。

 しかしイエスは、死の先にある永遠の住まいを示されました。「私の父の家には住まいがたくさんある。あなたがたのために場所を用意しに行く」。天国とは漠然とした死後の世界ではなく、父なる神がおられ、神と共に住む場所です。そしてイエスは、その場所を「あなたがたのために」用意すると言われます。天国は私たちに関わる希望なのです。

 死は多くのものを失わせます。しかしイエスにあって、死はすべての終わりではありません。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)とイエスは言われました。天国では神が人と共に住み、涙を拭い、死も悲しみも嘆きも痛みもなくなると聖書は告げています(黙示録 21:3∼4)。天国は私たちの「天の故郷」(ヘブライ 11:16)であり、天の父が私たちを迎えてくださる場所です。死によって引き裂かれた愛する者との再会への希望も、イエス・キリストにあって抱くことができるのです。

 天国への備えとは何でしょうか。それは、私たちのために天の住まいを用意してくださるイエスを信じることです。イエスは「私は道であり、真理であり、命である」と言われました。イエスこそ、神と私たちを結び、天の御国へ導く唯一の道です。十字架において私たちのために命を捨てられたイエスが天国への道となられたのです。

 桑原教会の召天者たちも、イエスこそまことの命の道であると信じ、天国への備えをして地上の生涯を歩み通されました。私たちもやがて死を迎えます。だからこそ、「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい」とのイエスの御言葉を心に刻み、イエスを信じ、天に備えられた住まいへの希望を抱き日々歩ませていただきましょう。


2026年9月20日
説教題 「罪人を悔い改めに導く神の慈しみ」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙2章1~16節
説  教 安井 光 師

 水戸黄門などの時代劇には、悪い者が裁かれ、正しい者が報われる「勧善懲悪」というパターンがあります。私たちは悪が正しく裁かれることを願います。しかしそこには、自分を正しい側に置き、 他の人を悪い側に置くという私たちの心のあり方も表れています。

 パウロは人間の罪を厳しく語りましたが(ローマ 1:18∼)、「すべて人を裁く者よ」(1節)と、私たち自身に目を向けさせます。パウロが問題にしているのは、悪を悪と言うことではなく、「裁くあなたも同じことをしている」ということです。私たちは人の罪には気付きます が、自分の罪には気付きにくいものです(マタイ7:1∼6)。

 ヨハネ8章では、姦淫の罪を犯した女を人々が連れて来て、彼女を裁こうとしました。イエスが「罪を犯したことがない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われると、誰も石を投げることができませんでした。私たちも聖書を読むとき、「これはあの人に当てはまる」と考えてしまうことがあります。しかし御言葉は、まず自分自身に語られているのです。

 罪深い私たちに、神は「慈しみ」を示してくださいます(4節)。私たちは自分の罪には神の慈しみを求めながら、 他人の罪には神の裁きを求めてしまいます。しかし神の慈しみは、私たちだけでなく、私たちが裁いている人にも向けられています (マタイ 18:21∼35)。

 神は罪を見逃しておられるのではありません。人の隠れた事柄まで見ておられ、公正に裁かれます。人を分け隔てなさることがありません。すべての人が神の前に責任を負います(Ⅱコリント 5:10)。しかし、神の慈しみと忍耐と寛容は、罪人を恐怖に陥れるためではなく、「悔い改めに導く」ために示されているのです。

 「慈しみ」とは、罪を甘く見ることではなく、罪人を神のもとへ立ち帰らせようとする神の愛です。その慈しみは、御子イエス・キリストの十字架に最もはっきりと示されています。神は私たちの罪を見逃されたのではなく、その罪を御子に負わせてくださったのです。十字架こそ、神の「豊かな慈愛と忍耐と寛容」の現れなのです。

 私たちは♪慈しみ深き友なるイエスは 罪咎憂いを取り 去りたもう♪と歌います(新聖歌209)。神の慈しみは、私たちにも、私たちが裁いている人々にも向けられています。私たちも彼らも神の慈しみを必要としています。そのことを心に留め、他人を裁く者ではなく、神の慈しみによって悔い改めへと導かれる者として、日々歩んでいきたいと思います。


2026年9月13日
説教題 「ナルドの香油」
聖書箇所 マルコによる福音書14章1~11節
説  教 安井 直子 師

 イエス様がエルサレムに入られた頃、祭司長や律法学者たちは、 イエス様を捕らえて殺そうと計画していました。また、弟子のイスカリオテのユダも、イエス様を裏切り引き渡そうとしていました。そのような緊迫した状況の中で、「ナルドの香油」の出来事が起こります。

 ベタニヤのシモンの家で、イエス様が食事をしておられた時、 一人の女性が非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来ました。そして壺を壊し、その香油をすべてイエス様の頭に 注ぎました。

 ナルドの香油は、当時の労働者の約一年分の賃金に相当するほど高価でした。女性がなぜこの香油を持っていたのかその理由は聖書に記されていません。しかし、彼女はイエス様を深く愛し、受けた恵みに心から感謝していたからこそ、大切なものを惜しまずイエス様にささげたのではないでしょうか。

 ところが、それを見た人々は、「何のために香油をこんなに無駄にするのか。 売って貧しい人々に施すことができたのに」と女性を責めました。 人々には、この行為が「無駄」に見えたのです。

 しかしイエス様は、「私に良いことをしてくれたのだ」と言われ、さらに「この人はできる 限りのことをした」とその行為を喜ばれました。人々が香油の値段だけを見たのに対して、イエス様は、その行為に込められた女性の愛と感謝の心をご覧になったのです。また、この行為を、ご自身の十字架の死に備える「埋葬の準備」として受け止められました。

  ここから私たちは、主への奉仕について教えられます。奉仕は単なる義務ではなく、主イエス様への愛と感謝の表れです。「できる限りのことをする」とは、皆が同じものをささげることではありません。 人によって持っているものも、できることも違います。大切なのは、 自分に与えられているものを、心を込めて主にささげることです。

  イエス様は私たちのために、ご自身の尊い命を十字架にささげてくださいました。その大きな愛を思う時、私たちにとっての「ナルド の香油」とは何でしょうか。それは、お金、時間、賜物、奉仕、祈り、 励まし、そして礼拝かもしれません。

 人には小さく見えることでも、イエス様は決して無駄にはなさいません。主は、どれだけ大きなことをしたかではなく、そこに込められた愛と感謝の心をご覧くださいます。ですから私たちも、十字架によって示された主の大きな愛 と恵みを覚えながら、私たちにできることを、私たちの精一杯を、喜んで主にささげていく者でありたいと思います。


2026年9月6日
説教題 「罪に向けられた神の怒り」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙1章18~32節
説  教 安井 光 師

 私たちは普段の生活で様々な感情を抱きます。時には怒りも覚えます。「これは許せない」と感じる時、怒るのではないでしょうか。 聖書が語る神は「愛の神」ですが、「神は天から怒りを現されます」とパウロは語っています。神は何に対して怒っておられるのでしょうか。それは人間の「不敬虔と不義」、罪に対してです。神は人をご自身に象って造り、神との愛の交わりに生きる者としてくださっていますが、人は神に背を向け、自分の思いのままに生きようとします。「不敬虔」とは神を畏れ敬わず、神を重んじないこと、「不義」とは神との正しい関係を拒むことです。神の真理を受け入れず、神にそっぽを向くことこそ、聖書が語る罪なのです。

 被造物は、創造主なる神の「永遠の力と神性」が明らかにしています。しかし人は神を神として崇めず、感謝することもせず、神でないものを神として拝もうとします。自分に都合のよい神を作り出し、自らが神になろうとするのです。放蕩息子(ルカ 15 章)が父を離れ、父などいなくても生きていけると考えた姿は、神に背を向ける人間の姿を示しています。人は心の空洞を他のもので満たそうとしますが、かえって心に空しさをもたらすのです。

 神の怒りは、雷のように天から降るのではありません。人が神を拒み、自分の欲望のままに生きようとする時、そのままの道を歩ませられること自体が、罪に対する神の怒りの現れなのです(24∼28 節)。罪は神との関係を壊し、さらに人との関係をも壊していきます。パウロが挙げる罪のリスト(29∼31 節)を見る時、私たちは誰一人として罪から自由ではないことを知らされます。

 しかしパウロは人間の罪を語って絶望を突き付けるのではありません。そこからイエス・キリストによる救い、福音を語るのです(ローマ 3:21 ∼26)。神は罪を見過ごされませんが、同時に罪人を愛し、御子イエスを救い主として遣わしてくださいました。イエスは私たちの罪を身代わりに負い、十字架で神の裁き、神の怒りを受けてくださいました(イザヤ 53:5∼6)。十字架において、罪に対する神の怒りと、罪人を救う神の愛とが同時に明らかにされたのです。

 私たちは羊の ようにさまよい、自分の道に向かって行った者ですが、神は御子の十字架によって私たちを赦し、神との交わりを回復してくださいました(ローマ 5:10)。これが福音です。ですから私たちは罪に身を任せるのではなく、救い主イエスを信じ、私たちを愛してくださる神 に自らをお任せし、神の導きを仰ぎながら歩んでまいりましょう。


2026年8月30日
説教題 「主はあなたの帰りを待っている」
聖書箇所 ルカによる福音書15章11~32節
説  教 安井 共生 修養生

 「放蕩息子の譬え」は、徴税人や罪人がイエスの近くに集まって来たことをきっかけに語られました。彼らは律法を守ることができないため、人々から蔑まれていましたが、イエスの福音を聞き、自分たちも神の国に入れるかもしれないと希望を抱いていました。一方、 ファリサイ派や律法学者は、律法を守ることで神の国に入ることができると考え、イエスが罪人を受け入れることに腹を立てました。

  この譬えには、父と二人の息子が登場します。弟息子は父に財産の分け前を求め、父がいなくても構わないかのように、遠い国へ旅立ちました。そして財産を無駄遣いし、飢饉にも見舞われ、豚の世 話をしながら、食べる物にも困る生活へと落ちていきました。自由を求めて父のもとを離れた彼は、いつしか孤独と飢えの中で、生きる希望さえ失いかけていたのです。

 その中で彼は「我に返って」、父のもとへ帰る決心をします。まだ遠く離れていたのに父は彼を見 つけ、走り寄って首を抱き、接吻しました。父は、息子の帰りをずっと待ち続けていたのです。彼を雇い人としてではなく、息子として完全に迎え入れ、盛大な祝宴を開いたのです。ここに神の愛が表されています。私たちが主を見つけたのではありません。主が私たちを見つけ出してくださったのです。神は、罪深い私たちが悔い改めて神の愛に帰ることを誰よりも願っておられます。私たちはイエスの十字架と復活によって神の子として受け入れられるのです。

 兄息子は、弟の帰りを喜ぶことができず、父に「私は何年もお父さんに仕えています」と不満をぶつけました。彼もまた、父の愛から心が離れていたのです。兄息子は、律法を守ることに熱心でありながら、神の愛を見失っていたファリサイ派や律法学者を表しています。そして私たちも、神の愛を見失えば、信仰生活が律法主義的なものへと陥ってしまいます。

 かつて私も、神の愛から心が離れていた時がありました。中学生の頃、人間関係に苦しんで不登校になり、現実から逃げ続ける中で、人や神への怒りを募らせていました。しかし、両親の愛や御言葉を通して神の愛が示され、私は「我に返る」ことができました。神は私の悔い改めを受け入れ、完全な回復へと導いてくださったのです。神は、私たち一人一人の帰りを待っておられます。心を頑なにするのではなく、神から離れていた歩みを悔い改め、神の愛に帰りましょう。そして、神の愛に生きる喜びを、互いに分かち合う者として歩ませていただきましょう。


2026年8月23日
説教題 「まことの知恵を見い出す」
聖書箇所 箴言8章1~36節
説  教 安井 光 師

 箴言8章では「知恵」がまるで人間のように私たちに語りかけてきます。知恵が道沿いや通りの四つ辻、町の門の傍らに立ち、人々に呼びかけています。「人よ」「思慮なき者よ」「愚かな者よ」と呼びかける知恵は、どのような人にも語りかけます。そして、自らを知恵ある者と思い高ぶるのではなく、自分に知恵がないことを認め、謙って聞くよう促しています。

 知恵は何を語るのでしょうか。知恵は「高貴なこと」「公平なこと」「まこと」を語り、すべてが「義」であり「正しく」「まっすぐ」であると言います。世の中には人を欺くための知恵もあります。しかしまことの知恵は神を畏れ、正しく真実であり、人を生かし、社会を建て上げる知恵です。知恵は、金や銀、財宝にまさると言います(10∼11節)。本当に人を生かし、正しい道に導くものは、目に見える財宝ではなく、神から与えられるまことの知恵なのです。この知恵は「熟慮」「知識と慎み」「助言と洞察」「分別」と「力」を持ち、悪 を憎み、高慢や悪の道を憎みます。さらに知恵は「私を愛する人を私も愛する」と語ります。まことの知恵は単なる知識ではなく、私たちとの人格的な関係を求めるものなのです。

 この知恵が何者であるのかが、22節以下に示されます。この知恵は天地創造の初めから神と共にあったと言います。ヨハネ1章は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と語り、コロサイ1章は「万物が御子によって造られ、御子にあって成り立っている」と語ります。新 約聖書は、この神の知恵をイエス・キリストにおいて示しているのです。コロサイ2章3節には、「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています」とあります。私たちはイエス・キリストにまことの知恵を見い出し、このお方の内に本当の宝を見い出すのです。パウロも、キリストを知ることの素晴らしさのゆえに、それまで誇っていたものを「損失」と見ました(フィリピ3:8)。キリストの内に本当の宝を見い出したからです。

 私たちは何を宝としているでしょうか。まことの知恵であるイエス・キリストを知り、このお方に聴き、従うことに、本当の幸いがあります。まことの知恵は私たちに、私に聴きなさい、私に従いなさいと呼びかけています(32∼34節)。「私を見いだす人は命を見いだし、主からの喜びにあずかる」。イエス・キリストこそ、 私たちを救うために十字架で死なれ、復活されたまことの知恵です。このお方をまことの知恵、また宝として、その語りかけに聴き従いつつ、豊かな命と喜びのうちに歩ませていただきましょう。


2026年8月16日
説教題 「福音の力」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙1章8~17節
説  教 安井 光 師

 夏は山へ出かける人も多い季節ですが、時には遭難事故も起こります。心配して待っているところに、「無事でした。もう大丈夫です」 という知らせが届いたら、どれほど喜ぶでしょう。すぐに親しい人にも「無事だったよ」と伝えるのではないでしょうか。パウロにとって福音とは、それにまさる良き知らせでした。福音とは、罪の中にある人が、神が遣わされた御子イエス・キリストによって救われ、永遠 の命を与えられるという喜びの知らせです。だからパウロは、この 福音を多くの人に伝えたいと願ったのです(15節)。

 パウロは「私は福音を恥としません」と宣言します。かつてキリストを迫害していたパウロでしたが、いまや福音を宣べ伝えていたのです。どうしてそ のような変化が起ったのでしょうか。福音に絶大な価値と力を見いだしたからです。「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」です。「力」と訳される言葉は「デュナミス」で、ダイナマイトなど の語源となった言葉です。神の力は人を破壊する力ではなく、人を罪から救い、新しく造り変える力です。パウロ自身がその力を経験しました。ダマスコ途上で主イエスに出会い、キリストを迫害する者から、福音を宣べ伝える者へと変えられたのです。

 神の力は、救われた後の人生にも働き続けます。その救いは人間の力や行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって与えられます。 信仰とは、私たちの信じる力ではありません。救う力を持っておられる主イエスを信頼し、その救いに自分を委ねることです。遭難者 自身に救助する力がないように、私たちにも自分を救う力はありません。救ってくださる主を信頼するのです。

 「正しい者は信仰によって生きる」と言われます。信仰は、救われる時だけ必要なのではありません。救われた後も、私たちは福音に根差し、主イエスに寄り頼んで生きるのです。主よ、私には分かりません、でもあなたは ご存じです。私には力がありません、でもあなたには私を支える力がありますと祈り、主に委ねて歩む。それが信仰によって生きるということです。

 福音は、罪深く弱い私たちを、神が無代価で救ってくださるという素晴らしい知らせです。私たちを救うために、神は独り子をささげてくださいました。ただ信じて、この救いを受け取ればよいのです。私たちは福音によって救われ、信仰によって生かされています。この素晴らしい福音を信じて生きるとともに、まだ福音 を知らない人々に、喜びをもって告げ知らせてまいりましょう。


2026年8月9日
説教題 「ちゃんとしなきゃ」
聖書箇所 マタイによる福音書11章25~30節
説  教 安井 聖 師

「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あな たがたを休ませてあげよう」。この言葉を聞くと、私たちは、自分の重 荷をすべて取り去っていただき、何も負わずに生きられるようになることを思い浮かべるかもしれません。しかし主イエスは、そうは言われません。「私の軛を負い、私に学びなさい」と言われます。では、主イエスのくびきを負うとは、どういうことでしょうか。

 私は、「休まれるイエス」という像を思い浮かべます。そこには、十字架を背負ってゴルゴタへ向かう途中、疲れ果てて腰を下ろしておられる主イエスが刻まれています。主イエスは、疲れを知らない遠い方ではありません。私たちが疲れ果て、弱音を吐き、一歩も歩けないようになる、その苦しみを、ご自身の身をもって知っておられる方です。

 私たちは、疲れ果てた自分を見るのが嫌になります。疲れているときの自分は、決してきれいな自分ではありません。神に対しても、人に対しても、優しく、正しく、信仰深く生きることができない。そこで私たちは、自分の罪深さを思い知らされ、自分自身や自分の人生に絶望してしまうことがあります。

 しかし、そこで終わらなくてよいのです。こんな自分では、もう主イエスのもとに行くことなどできないと考える必要はありません。どれほど罪深く、疲れ果て、歩けなくなった私たちであっても、主イエスは手放されません。なぜなら、主イエスご自身が、まさにその私たちのために、十字架への道を歩み抜いてくださったからです。主はそこで、疲労の極みを経験されました。そして、その歩みの果てに、私たちの救いを成し遂げてくださいました。その救いは、私たちがどんな姿になっても揺るぎません。だから主は言われるのです。「重荷を負っているそのあなたのまま、私のもとに来なさい」。

 主のくびきを負うとは、この恵みを自分の人生のくびきとして負うことではないでしょうか。自分の力で自分を立て直すのではなく、この罪深く疲れ果てた私のために、主が十字架を歩み抜いてくださったという恵みを仰ぎながら、今日の現実を歩んでいく。重荷そのものが消えるわけではありません。弱さも、苦しみも、嘆きも残ります。それでも、そのただ中で主イエスが「私のくびきを負い、私に学びなさい」と招いてくださる。この方が共にいてくださるなら、私たちは、その重荷を負ったままでも生きていけるのです。

 私たちに必要なのは、ちゃんとできる自分になることではありません。疲れ果てた自分をも決して手放さない主イエスの恵みを仰ぎ、その恵みの中で、もう一度、自分の歩みを歩み始めることなのです。


2026年8月2日
説教題 「パウロの自己紹介」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙1章1~7節
説  教 安井 光 師

 愛と希望の祭典・四国では、多くの教会を訪問し、私はそのたび に名刺をお渡ししました。名刺には自分が何者であるかが記され ています。ローマ書も同じように、パウロの自己紹介から始まります。 まだ一度も訪れたことのないローマの教会に宛てて、パウロは「私 はキリスト・イエスの僕、使徒として召され、神の福音のために選び 出された者です」と自己紹介しました。

 かつてのパウロなら、ヘブ ライ人の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派と(フィリピ3: 5~)、自分の経歴や肩書きを誇ったことでしょう。しかしイエス・キリ ストに出会ってからは違いました。「私はキリスト・イエスの僕」と語る ようになったのです。「僕」とは奴隷です。ローマ市民権を持つ自由 人であったパウロが、自らを「キリストの僕」と呼ぶのは驚くべきこと でした。それは、律法と罪の奴隷であった者が、キリストによってま ことの自由を与えられたからでした。主イエスがパウロを召し、神 の福音を宣べ伝える者へと造り変えてくださったのです。ですから パウロは恐れからではなく、愛をもって喜んで主に従っていたの です。

 パウロが大切にしていたのは肩書きではなく、「神の福音」 でした。福音とは「喜びをもたらす知らせ」です。それは単なる情報 や教えではなく、イエス・キリストそのものです。神が旧約聖書を通 して約束された御子は人となり、十字架と復活によって救いを完成 してくださったのです。パウロ自身、復活の主に出会い、人生が一 新されました。「生きているのは、もはや私ではありません。キリスト が私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と証ししている とおりです。

 パウロは、使徒として召された目的は「すべての異邦 人を信仰による従順へと導くため」だと言います。信仰による従順と は、イエス・キリストを信じ、愛をもって喜んで従うことです。演奏家 が指揮者を信頼して従うからこそ美しい音楽が生まれるように、私 たちも主イエスに従うとき、本当に自由にされ、本来あるべき者とし て生かされるのです。パウロは「あなたがたも召されてイエス・キリ ストのものとなったのです」と語ります。これはローマの信徒たちだ けでなく、今日の私たちにも与えられている恵みです。私たちは 神に愛され、聖なる者として召され、キリストのものとされているの です。

 私たちのアイデンティティは、肩書きや地位ではなく、「イ エス・キリストのもの」とされていることにあります。主に愛され、生か されていることを覚えつつ、喜んで主にお従いしてまいりましょう。


2026年7月26日
説教題 「信仰によるエリコの攻略」
聖書箇所 ヨシュア記6章1~21節
説  教 安井 光 師

 イスラエルの民はヨルダン川を渡ってカナンの地に入り、まず割 礼と過越祭を行いました(5:2∼、5:9∼)。神の救いを思い起こし、神の 民として新たに歩む決意をしたのです。こうして新しい歩みが始ま る中、目の前に立ちはだかったのが、堅固な城壁に囲まれたエリ コでした。

 ヨシュアは人間的な戦略を考えたことでしょう。主は「主 の軍勢の長」を遣わされ、「履物を脱ぎなさい」(5:15)と命じられまし た。それは、自分の知恵や力に頼るのをやめ、主にすべてを委ね るよう求める言葉でした。戦われるのは主ご自身だったのです。

  主は驚くべき方法を示されました。契約の箱を担ぎ、祭司たちがラ ッパを吹きながら、六日間毎日一度エリコを回り、七日目には七周 して鬨の声を上げることでした。人間の常識では理解し難い命令で すが、ヨシュアも民もそれを主の御言葉として受け入れ、従いまし た。

 六日間、民は黙って城壁の周りを歩きました。城壁に変化はな く、本当に意味があるのかという思いもあったでしょう。それでも彼 らは主を信頼し、命じられたとおり歩み続けました。そして七日目、 ラッパの音と鬨の声とともに城壁は崩れ落ち、エリコを攻略すること ができたのです。ヘブライ書11 章30 節には、「信仰によってエリ コの城壁は崩れ落ちた」と書かれています。

 私たちも人生におい て大きな壁が立ちはだかることがあります。聖書は、私たちの本当 の戦いは人との戦いではなく、悪との霊的な戦いであると教えます (エフェソ 6:12)。主イエスは「私はすでに世に勝っている」(ヨハネ 16:33)と宣言され、十字架と復活によって罪と死とサタンに勝利され ました。私たちの戦いも、自分一人の戦いではなく、主の戦いなの です。

 私たちは壁を前にすると、自分の力で何とかしようとしがち です。しかし主は私たちにも「履物を脱ぎなさい」と語りかけておら れます。自分の力ではなく、主に信頼し、御言葉に従って歩むよう 招いておられるのです。その信仰は、私たちにとって祈りや賛美と いう形で表されます。すぐには状況が変わらなくても、主は見えな いところで働いておられます。農夫が忍耐して収穫を待つように、 私たちも祈りと賛美をもって主を待ち望みましょう。

 礼拝をささげ、 日々祈り続ける歩みは決して無駄ではありません。主はご自身の 時に最も良い方法で道を開き、私たちの前に立ちはだかる城壁を 取り除き、それを乗り越える力を与えてくださいます。主の約束を信 じ、御言葉に聞き従いながら歩み続けてまいりましょう。


2026年7月19日
説教題 「揺らぐことがない信仰へ」
聖書箇所 詩篇16編1~11節
説  教 安井 直子 師

 私たちはクリスチャンになって良かったと思うことをそれぞれ持っていますが、その中でも大きな恵みは、「どんな時でも 変わることなく信頼できる神がおられる」ということではないで しょうか。人も環境も健康も変わりますが、神だけは昨日も今 日も変わることなく、私たちを愛し、守り、導いてくださいます。

 詩篇16篇はダビデが苦難の中で神への揺るぎない信頼を歌った詩です。サウル王に命を狙われる中、ダビデは「神よ、私を守ってください。私はあなたのもとに逃れました」「あなたのほかに幸いはありません」と祈りました。これは現実から逃げたのではなく、神の力をいただいて現実に向き合おうとした信仰の告白でした。

 私たちも病気や家庭、仕事など様々な 問題に直面します。そのような時、お金や人に頼るだけでは心の不安は取り除けません。神は「まずわたしのもとへ来なさい」と招いてくださいます。私自身も息子が不登校になった時、礼拝や祈祷会で神に支えられ、教会の祈りを通して「一人ではない」という慰めをいただきました。神は問題をすぐに取り除かれたのではありませんが、その中で家族を守り、最善へと導いてくださいました。

 ダビデはまた「地にある聖徒たちは私の喜び」と語り、信仰は一人で歩むものではなく、教会の交 わりの中で支えられることを教えています。一方で、お金や成功、自分の力を神以上に頼るなら、それは現代の偶像となり、信仰を揺るがせます。

 さらにダビデは、「主はわが受くべき分、わが杯」と告白します。神から与えられる祝福だけでなく、神ご自身こそ人生最大の宝であるという信仰です。

 「私は絶えず目の前に主を置く。主が右におられ、私は揺らぐことがない」と語ります。「主を前に置く」とは、自分ではなく神を人生の主人とし、その導きに従って歩むことです。主が私たちの右に おられるとは、神が助け主、守り手として共にいてくださるという約束です。

 この詩篇は、神が死を越えていのちへ導いてくださる希望を語ります。その希望はイエス・キリストの復活によって実現しました。私たちは永遠のいのちの希望を持って歩むことができます。

 人生には思いどおりにならない出来事があります。そのような時こそ、「あなたのほかに幸いはありません」と告白し、主を目の前に置いて歩ませていただきましょう。


2026年7月12日
説教題 「最後まで耐え忍ぶ」
聖書箇所 マルコによる福音書13章1~13節
説  教 安井 直子 師

 私たちは立派な建物を見ると「これは簡単には崩れない」と 思いますが、地震や豪雨などの災害を通してどれほど堅固な ものでも失われることを経験してきました。健康や財産、家族、 仕事なども神から与えられた大切な恵みですが永遠に続くも のではありません、

 弟子たちが見上げていたエルサレム神 殿は、神の臨在の象徴であり、ユダヤ人の誇りでもありました。 しかしイエスは、「ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ 落ちる」と語られます。この言葉は約 40 年後、ローマ軍による エルサレム陥落によって現実となりました。

 イエスはこの世に あるものは永遠ではなく、本当に信頼すべきお方は神だけで あることを教えられます。私たちは知らず知らずのうちに失わ れるものに安心を求めてしまいます。

 弟子たちは神殿崩壊の 時を尋ねましたが、イエスはその先にある終末へと目を向けさ せました。偽キリストの出現、戦争や地震、飢饉など、世界に は不安を覚える出来事が起こります。しかし主は「人に惑わさ れないように気をつけなさい」「慌ててはいけない」と言われま す。世界は揺れ動いても、神の救いのご計画は決して揺らぐ ことはありません・

 さらにイエスは、弟子たちが信仰のために 迫害を受けることも予告されました。しかし、「何を話そうかと心 配してはならない。聖霊が語るべき言葉を与えてくださる」と 約束してくださいました。主は決して私たちを見捨てず、聖霊 によって支え、必要な力を与えてくださいます。

 そしてイエス は「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と語られました。この忍 耐とは、ただ苦しみに耐えることではありません。神を信頼し 礼拝を守り、祈り、御言葉に聞き従いながら歩み続けることで す。失敗しても、そのたびに主のもとへ立ち帰り主と共に歩み 続けることです。それは私たちの努力ではなく、聖霊の助け によって与えられる恵みです。この章の後半でイエスは、「天 地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と約束されま した。神殿は崩れこの世のものは移り変わります。しかし、主 の御言葉と約束は永遠に変わりません。私たちは、変わりゆく 世界の中にあっても、変わることのないイエス・キリストを見上 げ、聖霊の助けをいただきながら、信仰と希望をもって最後ま で主と共に歩み続けたいと思います。


2026年7月5日
説教題 「ヨハネの伝えたいこと」
聖書箇所 ヨハネによる福音書20章30~31節
説  教 安井 光 師

 この箇所は、ヨハネ福音書の「あとがき」とも言える部分であり、ヨ ハネ自身がこの書を書いた目的を明らかにしています。「これらの ことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子メシアであると 信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るため である」。ここには、聖書が書かれた目的が二つ示されています。

  一つ目は〝私たちがイエスを神の子メシアと信じるため〟です。 ヨハネはイエスのなさった数多くの奇跡を「しるし」と呼びました。そ れは、それらがイエスご自身を指し示すものだからでした。水をぶ どう酒に変えたしるしも、五つのパンと二匹の魚で五千人を養われ たしるしも、みなイエスが救い主であることを証ししているのです 。

 またイエスは「私は命のパン」「私は世の光」「私は良い羊飼い」 「私は道、真理、命」と言われました。これらは肩書ではなく、イエス こそ私たちに命を与え、闇を照らし、救いへ導く神の子であること を表しているのです。イエスを信じるとは、イエスについて知識を 得ることではありません。医師を信頼して手術を受けるように、飛行 機で機長に身を任せるように、自分の人生をイエスに委ねることな のです。そのためにヨハネは、イエスの御言葉と御業を書き記した のです。

 二つ目は〝信じて永遠の命を得るため〟です。イエス は五千人を養われた後、「朽ちる食べ物ではなく、永遠の命に至る 食べ物のために働きなさい」と言われ、「私は命のパンです」と宣言 されました(6章)。永遠の命とは、ただ長く生きるものではありませ ん。神との交わりの中で生きる命です。

 「神は、その独り子をお与 えになったほどに、世を愛された」(3:16)とヨハネは記しています。 神は私たちを愛され、罪によって隔てられていた関係を回復する ため、御子イエスを遣わされたのです。イエスは十字架の死と復活 をとおして、信じる者に永遠の命を約束してくださいました。この命 は死後に始まるものではなく、イエスを信じたその時から始まりま す。サマリアの女も、永遠の命に与った一人でした(4章)。心に渇き を抱えていた彼女は、イエスから永遠の命に至る水を受け、神を礼 拝し、神との交わりの中に生きる喜びを知ったのです。

 ヨハネは、 多くの人がイエスを信じて永遠の命を受けるために、この福音書を 書き記しました。まだイエスを信じていない人は、ぜひこのお方を 心に迎えてください。すでに信じている私たちも、神と共に生きる 永遠の命の喜びを新たにし、その恵みの中を歩んでまいりましょう。


2026年6月28日
説教題 「私は主にあって喜ぶ」
聖書箇所 ハバクク書3章13~19節
説  教 安井 光 師

 賛美とは歌を歌うことだけではありません。「主をほめたたえます」「主を愛します」と神を見上げ、心から神をたたえることです。それは礼拝の時だけでなく、日々の生活の中でもささげることができます。でも私たちはいつも喜んで賛美できるわけではありません。悩みや苦しみの中では、神をほめたたえる気持ちになれないこともあります。この箇所には、そのような中でも神を賛美した預言者ハバククの姿が記されています。

 ハバククの時代、ユダの国には不正や暴力があふれていました。神を信じる人々も神から離れ、悪が栄えていました。ハバククは、なぜ神はこのようなことを放っておられるのですかと祈りました(1:2~4)。神は、「正しい人はその信仰によって生きる」と語られます(2:4)。神に信頼して歩むことを求められたのです。祈り続ける中で、ハバククは神が歴史を支配し、最後には正しいことをなさるお方であることを確信しました。そして「それでも、私は主にあって喜び、わが救いの神に喜び躍る」と告白したのです。

 なぜハバククはそう言えたのでしょうか。それは神がどのようなお方かを思い起こしたからです(13∼15節)。神は昔、エジプトで苦しんでいたイスラエルの民を救い出し、海を分けて守り導かれました。ハバククは、その神が今も共にいてくださると信じたのです。私たちも苦しい時には目の前の問題ばかりを見てしまいます。しかし振り返れば、神に助けられた経験があるのではないでしょうか。そして何より、主イエスが十字架で私たちの罪を負い、救いを与えてくださったことを思い起こしたいのです。

 17節には、実りがなくなり、家畜も失われるという厳しい状況が描かれています。それでもハバククは主を賛美しました。神から与えられるものではなく、神ご自身を喜びとしたのです。私たちも人生の中で、願いどおりにならないことや、大切なものを失う経験をします。しかし本当に大切なのは、何を持っているかではなく、誰が共にいてくださるかです。

 ハバククは「主なる神はわたしの力」と告白しました。鹿が険しい山道を進むように、神は困難な人生の道を歩む力を与えてくださいます(18節)。問題がすべてなくなるわけではありません。しかし主は共にいて、私たちを支え導いてくださいます。喜びの中にいる時も、苦しみの中にいる時も、主が私たちと共におられます。だから私たちも、「私は主にあって喜び、わが救いの神に喜び躍る」と告白し、主を賛美しながら歩んでまいりましょう。


2026年6月21日
説教題 「あなたは私を愛するか」
聖書箇所 ヨハネによる福音書21章15~23節
説  教 安井 光 師

 復活された主イエスは、ガリラヤ湖畔で弟子たちと食事をされた後、ペトロに「あなたは私を愛しているか」と三度問いかけられました。この問いは、かつて「たとえ皆がつまずいても私はつまずきません」と豪語しながら、イエスを三度否んでしまったペトロへの愛の呼びかけでした。

 ペトロは復活の主に再会した喜びを味わいながらも、自分の失敗を忘れることができず、主との関係に気まずさを感じていたことでしょう。そのような彼にイエスは、「この人たち以上に私を愛しているか」と尋ねられました。これは他人との比較を求める問いではありません。かつての自負心を砕き、神の恵みによって立たせるための問いでした。

 イエスは最後まで弟子たちを愛し抜かれました(ヨハネ13:1)。十字架はその愛の証しです。主が求めておられるのは、立派な決意ではなく、ご自身の愛に応えて主を愛することです。聖書の戒めも突き詰めれば、「神を愛し、隣人を愛しなさい」という一つのことに集約されます。私たちが主を愛することは、まず主が私たちを愛してくださったことを知り、その愛を信じることから始まるのです(ヨハネ15:9、12)。

 ペトロは「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。失敗を経験した彼は、自分の弱さを知っていたのです。原文では、イエスが問われた「愛」と、ペトロが答えた「愛」とは異なる言葉が使われています。イエスは神の完全な愛を示す言葉で問い、ペトロは人間的な愛を表す言葉で答えました。しかし三度目には、イエスご自身がペトロの言葉に寄り添われます。主は不完全な愛しか持てない私たちを退けず、その精一杯の応答を受け入れてくださるのです。

 イエスは、「私の羊を飼いなさい」と言われました。主は罪を赦し、回復させた者に大切な務めを託されます。私たちも家庭や職場、教会において、主が愛しておられる人々を委ねられています。さらに主はペトロに、「私に従いなさい」と命じられました。主を愛するとは、主に聞き従って歩むことです。自分が人生の主導権を握るのではなく、主の導きに身を委ねることです。

 「あなたは私を愛するか」。この問いは今日も私たちに向けられています。立派な答えは必要ありません。ただ「主よ、あなたはすべてをご存じです」と申し上げればよいのです。主は私たちの弱さも失敗も知ったうえで愛してくださり、大切な務めを託し、導いてくださいます。主の愛を信じ、主を愛し、この週も主と共に歩んでまいりましょう。


2026年6月14日
説教題 「小さな二つのささげもの」
聖書箇所 マルコによる福音書12章41~44節
説  教 安井 直子 師

 私たちは人や物事を評価するとき、成績や業績、社会では収入や地位に注視します。寄付や献金についても、献げた金額が注目されがちです。しかし神様の評価は人間の評価とは大きく異なります。

 今日の箇所はイエス様が十字架にかかられる数日前の出来事です。イエス様は神殿の献金箱の前に座り、人々が献金する様子を見ておられました。多くの金持ちがたくさんの献金を入れていましたが、その中に一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚を献げました。それは当時の最小単位の硬貨でごくわずかな金額でした。

 しかしイエス様は弟子たちを呼び寄せて言われました。「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。」弟子たちは驚いたことでしょう。なぜなら金額だけを見れば、彼女の献金は最も少なかったからです。その理由をイエス様はこう説明されました。「皆は有り余る中から入れたが、この人は乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」イエス様は金額ではなく、その背後にある信仰をご覧になりました。やもめにとって二枚の銅貨は生活そのものでした。彼女は自分の将来を神様に委ね信頼して献げたのです。

 神様が求めておられるのも、単なるお金ではありません。神様を信頼する心です。私たちにとっての「レプトン銅貨二枚」とは何でしょうか。礼拝や祈りのためにささげる時間かもしれません。神様と教会のために用いる賜物かもしれません。また不安や心配を主に委ねることかもしれません。神様は大きなものを求めておられるのではなく「あなたの心をわたしに与えなさい」と招いておられます。たとえ小さく見えるものであっても、信仰をもって献げられるものを主は喜んで受け取ってくださいます。

 そしてこの物語はやもめで終わりません。数日後イエス様ご自身が十字架へ向かわれます。やもめは生活費のすべてを献げましたが、イエス様は私たちを救うために、ご自身の命そのものを献げてくださいました。

 私たちの献金や奉仕、献身は、この大きな恵みに対する感謝の応答です。主イエス様は私たちの心をご覧になります。やもめの小さな二枚の銅貨に目を留められた主は今も私たちの小さな信仰の献げものを喜んで受け入れてくださいます。その主を信頼し感謝をもって歩みましょう。


2026年6月7日
説教題 「弟子訓練」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙10章14~15節
説  教 デビン・ウィリアムズ 師

 パウロはローマ書10章で、人々が救われるためには福音を聞く必要があり、そのためには誰かが伝えなければならないと語っています。「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです」(17節)。これは福音宣教の大切さを教えるだけでなく、弟子として成長していく歩みを示しています。

 まず、グループAはイエスをまだ知らない人々です。今日の日本にも、福音を聞く機会の少ない人が大勢います。私たちは家族や友人のために祈り、福音を伝える責任があります。困難な時代にあっても、イエスこそ真の希望であることを証ししていかなければなりません。

 次に、グループBは福音を聞いたが、まだ信じていない人々です。この人々を見捨ててはいけません。信仰は一度聞いただけで生まれるとは限りません。教会が温かく迎え入れ、愛をもって接し、神のことばを理解できるよう助ける必要があります。私たちの生き方そのものが、神の愛を示す証しとなるのです。

 そして、グループCは信者たちです。しかし信者であることがゴールではありません。私たちは礼拝に出席するだけの「消費型クリスチャン」ではなく、主の働きに参加するよう招かれています。神はしばしば、日々の奉仕や交わりを通して私たちの心を整え、御国のために用いられる器へと造り変えてくださいます。

 私自身も、教会で小さな奉仕を続ける中で、自分の計画よりも神の計画を優先するよう導かれました。特別な奇跡があったわけではありません。しかし神は静かに心を変え、やがて新しい奉仕へと召されたのです。神は私たちにも、「誰を遣わそうか」と問いかけておられます。

 日本では多くの教会が弱体化し、福音を語る人がいない地域も少なくありません。だからこそ、一人ひとりが神の働きに参与することが求められています。才能や経験の有無よりも、「主よ、私をお用いください」という従順な心が大切です。

 最後に、グループDは実際に遣わされて行く人々です。福音を伝える働きは決して自分の力だけで行うものではありません。イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのところに来なさい」と語られました。主は私たちと共に重荷を担い、必要な力を与えてくださいます。

 信仰は聞くことから始まります。そして聞くためには、語る人が必要です。私たちも神の愛を受けた者として、福音を伝え、励まし、仕える者となりましょう。神はその歩みを通して、多くの人々を救いへと導いてくださるのです。 


2026年5月31日
説教題 「主は私の羊飼い」
聖書箇所 詩編23編1~6節
説  教 安井 直子 師

 詩篇23篇は、聖書の中でも最も親しまれている箇所の一つです。多くの人が人生の苦しみや悲しみの中で、この詩篇から慰めと希望を受けてきました。この詩には神を信頼する者の平安と確信が美しく歌われています。

 詩人はまず「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」と告白します。羊は弱く、自分で安全な道を見つけたり、身を守ったりすることができません。そのため羊飼いの導きが必要です。聖書は私たち人間も羊にたとえています。私たちも迷いや不安を抱え自分の力だけでは生きることのできない存在だからです。「私は乏しいことがない」とは、神が共にいてくださるので、本当に必要なものは備えられるという信仰の告白です。神ご自身が共にいてくださることこそ、最大の祝福なのです。

 続いて詩人は、「主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴われる」と語ります。羊飼いが羊を養い、休ませるように、神は私たちの心と魂を養ってくださいます。また「主は私の魂を生き返らせる」とあります。私たちは失敗し疲れ果て、立ち上がれなくなることがあります。しかし主はそのような私たちを見捨てず、新しい力を与えてくださるのです。

 4節「たとえ死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない」ここで詩人は、信仰者も苦しみや悲しみを経験すると語っています。人生には暗い谷があります。しかし、その中でも恐れないと言うのです。なぜなら、「あなたが私と共にいてくださるから」です。苦しみの中で神は遠くにおられるのではなく、最も近くで支えてくださいます。羊飼いが杖を持って羊を守るように、主は私たちを守り導いてくださるのです。

 さらに詩人は、「あなたは私のために食卓を整えてくださる」と語ります。神は問題がすべて解決した後ではなく、困難のただ中で平安を与えてくださいます。そして神の恵みは、「私の杯はあふれる」と表現されるほど豊かなものです。

 最後に詩人は「恵みと慈しみが私を追う」と告白します。神は私たちを見捨てることなく、その愛をもって追い続けてくださいます。そしてイエス様は「わたしは良い羊飼いである」と言われました。イエス様は私たちのために十字架にかかり、命を捨ててくださいました。そして復活によって永遠の命の希望を与えてくださいました。主に信頼し従いながら歩みましょう。


2026年5月24日
説教題 「聖霊の働き」
聖書箇所 使徒言行録2章14~42節
説  教 安井 光 師

 イエスは十字架の死から復活された後、弟子たちに「エルサレムを離れず、父が約束された聖霊を待ちなさい」と命じられました。弟子たちはその約束を信じ、心を合わせて祈りながら待ち望みました。そしてペンテコステの日、聖霊が彼らの上に降ったのです。すると弟子たちは、人々の前に立って大胆にイエスを証しする者へと変えられたのでした。

 ペトロは人々の前に立ち、ヨエル書の「終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ」という預言が今実現したのだと語りました。旧約の時代、聖霊は特別な人々にのみ与えられていましたが、いまやすべての人に注がれる時が来たのです。ペトロは、イエスの十字架の死が神の救いのご計画であり、復活によってその救いが完成したことを証ししました。イエスこそ旧約聖書で預言されていた救い主なのだと大胆に語ったのです。

 かつてのペトロは、イエスとの関係を三度否定してしまう弱い人間でした。しかし聖霊によって、イエスの十字架と復活の意味を悟らされ、力強く福音を語る者へと変えられました。イエスは聖霊を「真理の霊」と呼ばれました(ヨハネ15:26)。聖霊は、イエスが私たちの救い主であることを悟らせ、私たちの心を変えてくださるのです。

 ペトロの説教を聞いた人々は「大いに心を打たれ」、「私たちはどうしたらよいのでしょうか」と尋ねました。聖霊が彼らの心に働き、自分たちの罪を悟らせたのです。悔い改めとは、自分中心の生き方から神へと向きを変え、イエスを人生の主として受け入れることです。それは人間の努力によるのではなく、聖霊の働きによって与えられるものです(Ⅰコリント12:3)。聖霊は福音を語る者にも、聞く者にも働かれるのです。

 ペンテコステの日、三千人もの人々が洗礼を受け、新しく教会に加えられました。こうして聖霊の働きによって教会が誕生したのです。教会とは建物ではなく、イエスを信じる人々の群れです。初代教会の人々は、使徒たちの教えに聞き従い、互いに愛し合い、祈り、共に礼拝をささげました。聖霊が彼らを一つに結び合わせていたのです。

 ペンテコステの日に弟子たちに降った聖霊は、今も教会に、また私たち一人一人に働いておられます。聖霊はイエスが今も生きておられることを示し、私たちを救いへと導き、互いに結び合わせてくださいます。私たちは聖霊の助けと導きを受けながら、日々主に従って歩んでまいりましょう。


2026年5月17日
説教題 「復活の主の食卓」
聖書箇所 ヨハネによる福音書21章1~14節
説  教 安井 光 師

 弟子たちは、復活されたイエスに既にお会いしていました。主は彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と語り、「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけ、福音宣教の使命を託されました(20:19∼23)。しかし弟子たちは、なお戸惑いの中にいました。頭では主の復活を理解していても、心が追いつかなかったのです。十字架の悲しみと復活の喜びという大きな出来事を経験した彼らは、心が空虚になっていたのです。

 そのような中で、ペトロが「私は漁に出る」と言い、他の弟子たちも舟を出しました。弟子たちは夜通し漁をしましたが、一匹も魚を捕ることができませんでした。その時、岸辺に立っておられたイエスが「舟の右側に網を打ちなさい」と言われます。弟子たちはその言葉に従い、網を引き上げられないほどの大漁を経験しました。それは、「あなたがたは一人ではない。私はいつも共にいる」ことを示すための奇跡でした。ペトロは、それが「主だ」と分かると上着をまとって湖に飛び込みました。私たちもまた、日々の生活の中で復活の主にお会いする必要があります。それは聖書の御言葉を通してです。礼拝ごとに語られる御言葉に聴き従う中で、主はご自身を現してくださいます。

 岸に上がると、そこには炭火が起こされ、魚とパンが用意されていました。主は弟子たちのために朝食を整えておられたのです。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。復活の主は今もなお、弟子たちを愛し、交わりへ招いておられました。特にペトロにとって、この食卓には深い意味がありました。「炭火」を見た時、彼は主を三度否定した夜を思い出したことでしょう(18:18∼)。しかしイエスは彼を退けませんでした。むしろ食卓へ招き、赦しと回復を与えられたのです。

 愛と希望の祭典もまた、復活の主の食卓であったと言えます。ウィル・グラハム師は「イエスのもとへ来てください」と私たちを招かれました。TAYAさんの賛美「COME INTO THE LIGHT(光の中に来なさい)」は、罪や傷を抱えた者を主が招いておられることを力強く歌っていました。「光」とは主イエスご自身です。主は「光の中に来なさい」と私たちを招いておられるのです(Ⅰヨハネ1:5∼10)。

 主日礼拝は、復活の主が臨在される場です。主は私たちを虚ろな心のまま放ってはおかれません。礼拝を通して励まし、力づけ、それぞれの生活へと送り出してくださいます。私たちは復活の主が共におられることを覚え、御言葉に聴き従いながら歩んでまいりましょう。


2026年5月10日
説教題 「最も大切な戒め」
聖書箇所 マルコによる福音書12章28~34節
説  教 安井 直子 師

 律法学者はイエス様に尋ねました。「あらゆる戒めのうち、どれが第一でしょうか。」当時のユダヤ人には613もの戒めがありました。その中で何が最も大切なのか人々は議論していたのです。イエス様はこう答えられました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なる神を愛せよ」「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」。

 第一の戒めは「神を愛すること」です。しかし私たちは、見えない神をどう愛したらよいのか分からなくなることがあります。けれども聖書はまず「神が私たちを愛してくださった」と語ります。神は、失敗し弱さを抱えた私たちをも大切にしてくださるお方です。その愛はイエス様が十字架にかかってくださったほど深い愛でした。だから「神を愛しなさい」という言葉は、冷たい命令ではありません。「わたしはあなたを愛している」という神の呼びかけへの応答なのです。私たちは礼拝し、祈り、聖書を読む中で、その神の愛を何度も思い起こします。そして神の愛を知る時、「主よ、私もあなたを愛したい」と願うようになるのです。

 イエス様は続けて「隣人を愛しなさい」と言われました。神を愛することと、人を愛することは切り離せません。隣人とは、自分の好きな人だけではありません。家族や友人、職場の人、時には苦手な人も含まれます。神が今、私たちのそばに置かれた人が隣人なのです。

 しかし人を愛することは簡単ではありません。傷つき、赦せないと思うこともあります。だからこそまず自分自身が神に愛されていることを知ることです。神は私たちに、「あなたはわたしの目に尊い」と語ってくださいます。その愛に支えられる時私たちは少しずつ他者にも優しくなれるのです。

 マザー・テレサは、貧しい人々に仕えながら、「この人の中にイエス様を見ています」と語りました。彼女を動かしたのは義務感ではなく、神に愛されている喜びでした。

 私たちにも、大きなことはできないかもしれませんが、落ち込んでいる人に声をかけること、誰かの話を聞くこと、祈ることはできます。その小さな愛の中に、神の愛が現れていくのです。イエス様は、「この二つにまさる戒めはない」と言われました。神を愛し、隣人を愛する―その歩みの出発点は、いつも神の愛です。神に愛されている者として、私たちも愛に生きる者とされたいと思います。


2026年5月3日
説教題 「ロトのピンチ」
聖書箇所 創世記14章1~24節
説  教 安井 満 師

 アブラハムの甥ロトは、ヨルダンの低地を選び、そこに移り住みました(13:11)。ロトがヨルダンの低地に移り住むことを決心したのは、ヨルダンの低地が主の園のように、またエジプトの地のように、隅々までよく潤っていたからでした(13:10)。

 よく潤って見えたのは、外側から見てのことでした。ロトがヨルダンの低地ソドムとゴモラに住むようになって知ったことは、その地域がエラムの王ゲドルラオメルの支配下にあるということでした。ソドムとゴモラの富のほとんどが、ゲドルラオメルに奪い取られていました。ゲドルラオメルに仕えていた五人の王は、十二年間続いた従属関係を破棄して、独立を願い戦争になりました(4、5)。しかし、ゲドルラオメルの連合軍に打ち負かされました。

 ソドムとゴモラの王は敗走しますが、何とロトが捕虜として連れ去られてしまいました(12)。ロトの生涯における大ピンチであります。ロトのピンチは、自業自得という面があります。ロトは生活の便利で暮らしやすい楽な道、繁栄を保証する道を選びました。これは人間として自然な方向でもあります。しかし繁栄を保証してくれる場所には貪欲な人間が群がり、権力闘争が繰り広げられます。

 時に一人の人が逃れてきて(13)、アブラハムに戦争の結果とロトが捕虜として連れ去られたことを伝えました(14)。甥のロトの身の上を案じたアブラハムは、訓練した318人の救出隊を組織してロトの救出に向かいます。ダンまで追って行き(14)、救出隊を二手に分けて挟み撃ちで夜襲を結構します。その結果、強力なゲドルラオメルの連合軍の隙を突くことになり(15)、連合軍は動揺し、遂に退却しました。アブラハムはロトを救出することができたのです。

 アブラハムは、わずか318人の救出隊でソドムとゴモラの王をはじめとする5人の小王ができなかったことを行い、大軍を撃破しました。凱旋したアブラハムを迎えたソドムの王は、「人を私に返し、財産はあなたがお取りください」(21)と申し出ます。謝意を物で示そうとしています。これと対照的な対応をしたのは、サレムの王メルキゼデクです。ソドムの王はアブラハムの勇猛果敢な戦いによる大勝利を讃えていますが、メルキゼデクはアブラハムに対して、「天と地の造り主、いと高き神にアブラムが祝福されますように。敵をあなたの手に渡された、いと高き神はたたえられますように」(19∼20)と。


2026年4月26日
説教題 「キリストの名によって歩きなさい」
聖書箇所 使徒言行録3章1~10節
説  教 安井 光 師

 イエスがなされた最大の御業は、罪人を救い神の子とすることです。見えるものに頼っていた人が、見えない神を礼拝し、感謝と喜びのうちに生きるようになることこそ、まことの奇跡であります。この箇所にも、そのような神の御業が示されています。

 ペトロとヨハネが祈るために神殿に上ったとき、「美しの門」に、生まれつき足の不自由な男が座り、施しを求めていました。彼は四十年以上歩けず、人々の助けに頼って生きていました。二人は彼を「じっと見つめ」、さらに「私たちを見なさい」と語りかけました。この言葉には、自分たちの内におられる神、共におられるキリストを見てほしいという思いが込められています。教会もまたそのように言える存在であることを主は願っておられます。

 男は施しを期待しましたが、ペトロは「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう」と言い、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と告げました。彼らは物質ではなく、キリストという最も尊い宝を持っていたのです(Ⅰペトロ1:3∼4、18∼19)。人は目に見える利益を求めがちですが、神ご自身を求めることは少ないものです。しかしキリストにおいて与えられるのは、朽ちない永遠の命という天の宝です。

 「イエスの名」とはイエスご自身を意味し、その力が男を立ち上がらせました。彼はたちまち癒やされ、躍り上がって歩き出しました。しかし真の奇跡はそれだけではありません。彼は神を賛美し、神殿の中に入り、礼拝する者へと変えられました。施しを乞う者から、神を礼拝する者へと新しくされたのです。

 この出来事は、私たち自身の姿でもあります。私たちもキリストによって罪を赦され、永遠の命を与えられた者です。そしてその恵みを証しする使命が与えられています。教会には罪の赦しを宣べ伝える務めが託されています。私たちは「イエスの名」という宝を携え、「立ち上がり、共に歩きましょう」と人々に呼びかける者です。

 ペトロもまた失敗を経験しましたが、キリストによって立ち直らされ、他の人を励ます者とされました。その変化は人々を驚かせました。同じように、私たちが困難の中でも感謝と喜びと希望をもって生きる姿は、人々の心を動かします。特別なことではなく、日々の信仰の歩みこそが証しとなるのです。

 見えるものではなく、見えない神の力によって、イエス・キリストの名により生かされる歩みを続けていきたいと思います。そしてその命を分かち合い、多くの人が神を礼拝する者へと導かれることを願います。


2026年4月19日
説教題 「見ないで信じる」
聖書箇所 ヨハネによる福音書20章19~29節
説  教 安井 光 師

 主イエスが復活された日の夕方、弟子たちはユダヤ当局を恐れ、戸を閉ざして身を隠していました。彼らの心には、迫害への恐れだけでなく、主を失った悲しみ、希望を失った絶望、主を見捨てた後悔がありました。しかしそのただ中に、復活の主イエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」と語られます。これは単なる挨拶ではなく、恐れと絶望を取り除く神の平安の宣言でした。弟子たちは主を見て喜び、平安に満たされました。

 主は弟子たちを慰めるだけでなく、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われ、聖霊を授けて、福音の証人として世に送り出されました。礼拝とは、主から平安と祝福を受ける場であると同時に、主の証人として遣わされる場でもあります。私たちもまた、復活の主に出会い、聖霊を受けて、この世へと遣わされているのです。

 しかしその場にトマスはいませんでした。彼は「この目で見なければ信じない」と言います。トマスは疑い深い人と見られますが、その姿は私たちの姿でもあります。見えないものを信じることは容易ではありません。しかし八日後、主は再び現れ、トマスに傷跡を示され、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語られました。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と告白するのです。

 ただ見て信じたのはトマスだけではありません。他の弟子たちも、復活の主を見て信じました。その意味で、トマスだけが疑い深かったのではありません。主は、そのような者たちにご自身を現され信仰へと導かれたのです。私たちも信仰の歩みの中で、生ける主が確かにおられると示され、「わたしの主、わたしの神よ」と告白する経験を与えられてきたのではないでしょうか。

 その上で主は言われます。「見ないで信じる人は、幸いである」と。「見ないで信じる」とは、根拠なく思い込むことではなく、神の御言葉に信頼することです(ヘブライ11:1)。アブラハムも、目に見える保証がない中で神の約束を信じ、従いました。信仰とは、見えるものではなく、神の真実な御言葉に立つことなのです。

 現代は「見なければ信じない」という実証主義の時代です。しかし主は、そのような世界にあって、「見ないで信じる」幸いに生きる者として私たちを遣わしておられます。復活の主は今も生きておられます。その主の御言葉を信じ、平安と聖霊をいただき、復活の証人として歩んでまいりましょう。


2026年4月12日
説教題 「神のものは神に」
聖書箇所 マルコによる福音書12章13~17節
説  教 安井 直子 師

 イエスを陥れようとする宗教指導者たちの策略と、それに対する主の見事な応答を通して、私たちの生き方の本質を示しています。祭司長や律法学者たちは、対立していたファリサイ派とヘロデ党を結託させ、「皇帝に税を納めるべきか」という問いを投げかけました。これはどちらに答えても不利になる巧妙な罠でした。

 しかしイエスは彼らの偽善を見抜き、デナリオン銀貨を示させ、「これは誰の肖像か」と問われます。そして「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と語られました。この言葉は単なる機転ではなく、信仰と生活の両面に関わる深い真理を示しています。

 まず「皇帝のものは皇帝に」とはこの世における責任を果たすことの大切さを教えています。私たちは社会の中で生きる者として、法を守り責任を担い、秩序を尊ぶことが求められています。信仰を理由に社会的責任を軽んじるのでも、逆に社会に迎合して信仰を失うのでもなく、両者のバランスの中で誠実に生きることが大切です。

 かしこの御言葉の中心は「神のものは神に返しなさい」にあります。銀貨に皇帝の像が刻まれているように、私たち人間は神のかたちに造られた存在です。さらにキリストの十字架によって贖われた私たちは、創造においても贖いにおいても神のものです。それゆえ、自分の人生や持ち物は本来自分の所有ではなく、神から託されたものなのです。

 それにもかかわらず、私たちは自分の時間や能力を自分のために使うのが当然だと考えがちです。しかしすべてが神のものであると知るとき、私たちはそれを管理する者として生きるように招かれます。この視点に立つ時、人生を自分で握りしめる不安から解放され、神に委ねる平安と自由が与えられます。

 神は強制的に取り立てる方ではなく、まずすべてを与えた上で、私たちにご自身へと立ち返るよう招いておられます。イエス・キリストは十字架によって私たちを買い戻してくださいました。私たちは誰のものかを問い直し、自分自身を神にお返しする歩みへと導かれたいと思います。「神のものは神に返しなさい」という御言葉に従い、日々の生活の中で神にささげる者として歩みましょう。


2026年4月5日
説教題 「死から復活されたイエス」
聖書箇所 ヨハネによる福音書20章1~18節
説  教 安井 光 師

 週の初めの日の朝早く、マグダラのマリアが墓を訪れると、石は取り除かれ、墓は空になっていました。驚いたマリアはペトロともう一人の弟子に知らせ、二人は急いで墓へ向かいました。先に着いた弟子は中に入らず、後から来たペトロが入ると、遺体はなく、亜麻布と頭の覆いだけが残されていました。二人はこの光景を見て復活を信じました。

 しかし弟子たちが復活の意味を十分に理解するのは後のことです。彼らは復活の主と出会い、聖霊によって御言葉が開かれる中で、十字架と復活の意味を悟っていきました。それでも、この時すでに空の墓を見て信じたことが、信仰の始まりでした。

 私たちの信仰も同様に、イエスの十字架と復活の両方を信じることにあります。十字架の死は信じても復活は受け入れがたいと感じる人もいますが、全能の神を信じるなら、死者をよみがえらせることも不可能ではありません。十字架を信じる者は、そのまま復活をも信じるよう招かれているのです。信仰は理屈を超えたところで、聖霊によって与えられるものでもあります。

 一方、マリアは墓の前にとどまり、悲しみの中で泣き続けていました。彼女はなおイエスの亡骸を求めていましたが、復活されたイエスはすでに彼女のそばに立っておられました。「マリア」と名を呼ばれたとき、彼女は初めてそれが主であると気づきました。イエスは彼女に、もはや以前と同じ仕方ではなく、十字架と復活に基づく新しい関係へと生きるよう求められたのです。

 マリアは人間的な愛情によってイエスに結びついていましたが、これからは復活の主を信じる信仰によって結ばれる必要がありました。目に見える存在としてのイエスではなく、死に勝利し今も生きておられる主に望みを置くことが求められたのです。

 イエスは復活して今も生きておられる救い主です。私たちはその姿を目で見ることはできませんが、聖書の御言葉と聖霊の働きを通して主を知り、信じることができます。実際、イエスを直接見た人々の多くが信じなかった一方で、見ていない多くの人々が信じてきました。今日に至るまで、無数の人々が復活の主を信じて救いにあずかっています。

 復活の主は今も生きておられ、私たちのただ中に臨在しておられます。今も私たち一人一人を呼び、御言葉を語りかけておられます。そしてその福音を託し、共に歩むよう招いておられるのです。私たちは信仰の目をもって復活の主を見つめ、その臨在の中で日々歩んでいきましょう。