
過去の礼拝メッセージの音声を配信をしています。
2025年4月27日
説教題 「荷が重すぎる」
聖書箇所 民数記11章10~23節
説 教 安井 光 師
2025年4月20日
説教題 「心燃やされて」
聖書箇所 ルカによる福音書24章13~35節
説 教 安井 光 師
愛する人の死に直面する時、私たちは深い悲しみと喪失感に包まれます。イエスの十字架の死を目の当たりにした弟子たちもそうでした。希望の光だったイエスを失い、深く落胆した弟子たちが、「心燃やされて」立ち上がることができたのは、イエスの復活とその出会いがあり、御言葉が説き明かされたことによります。
イエスが復活された日、二人の弟子がエマオへ向かい「暗い顔をして」歩いていました。復活の知らせを耳にしても、心から信じきれず、希望を見出せずにいたのです。復活の主イエスが近づかれ、彼らと共に歩まれますが、弟子たちはそれがイエスだと気付きませんでした。心の目が遮られていたのです。イエスは弟子たちの無理解を責めつつも見捨てることなく、聖書全体からご自身について説き明かされました。メシアは苦しみを受けて死に、復活し栄光に入るという、救いのご計画をイエスは丁寧に解き明かされたのです。
弟子たちはイエスから聖書を説き明かされながら、徐々に心が温かくなっていくのを感じました。宿に着いた後、イエスがパンを裂いて弟子たちに渡された時、弟子たちの目は開かれ、それがイエスだと分かりました。その姿は最後の晩餐と重なり、イエスの十字架の死と復活の意味が、弟子たちに理解され、心に深く刻まれた瞬間でした。十字架と復活の信仰が、弟子たちの心を造り変え、立ち上がる力を与えたのです。
イエスは今も私たちと共に歩まれ、御言葉によってご自身を現しておられます。「聖書は私について証しするもの」(ヨハネ5:39)と言われます。目には見えなくても、聖書をとおして私たちの目を開き、心を燃やし、信仰を新たにしてくださるのです。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は心が燃えていたではないか」。この燃え方は一時的な感情ではなく、炭火のように静かに長く燃え続ける信仰です。弟子たちがそうであったように、御言葉によって心が燃やされる信仰は、人生をとおしてイエスに従う力となるのです。
主イエスは私たちの人生の道のりを一緒に歩いて行かれます。道々、主は私たちに御言葉を語られ、ご自分が十字架の死から復活され、今も生きておられる救い主であることを証ししてくださいます。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:10)と約束しておられます。辛いことや苦しいこと、失望し落胆することがありますが、日ごとに主の御言葉に心燃やされ歩ませていただきましょう。
2025年4月13日
説教題 「主イエスの十字架」
聖書箇所 マルコによる福音書15章21~41節
説 教 安井 直子 師
今週は「受難週」で、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で苦しみ、命をささげられたことを覚える大切な期間です。特に金曜日は「受難日」で、イエスが十字架につけられた日です。今回はマルコの福音書を通して、イエスがどのように苦しまれたのかを見ていきます。
まず、十字架に架けられる前、イエスは不正な裁判にかけられ、ローマ兵に引き渡されました。兵士たちはイエスを侮辱し王の衣を着せて嘲笑いました。そして重い十字架を背負わされ、処刑場へと引き出されます。イエスは疲れと苦しみの中で倒れ、通りかかった外国人・キレネ人シモンが無理やりその十字架を担ぐことになりました。最初は戸惑いや不満があったシモンでしたが、イエスと出会い、後に信仰者となり人生が変えられたと言われています。
私たちも時に、「なぜ自分がこんな苦しみに遭うのか」と思うことがあります。しかし、その苦しみの中でこそイエスの十字架を見つめ、与えられる恵みに気づくことができるのです。
イエスは朝9時頃、ゴルゴタの丘で十字架にかけられました。痛みを和らげるためのぶどう酒も拒み、すべての苦しみを身に引き受けられました。その苦しみは、肉体的な痛みだけでなく神に見捨てられるという深い孤独と悲しみを伴うものでした。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」との叫びは、その絶望の深さを物語っています。
本来、神に見捨てられるべきは私たちでした。しかしイエスは、私たちの罪の身代わりとして「捨てられる者」となってくださったのです。その犠牲によって、私たちは神に近づき、神に祈ることができるようになりました。
イエスの死と同時に神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた出来事は、神と人との間にあった隔たりが取り除かれたことを象徴しています。イエスの贖いの死によって、私たちは神との交わりを回復できたのです。
また、イエスの死を見届けた百人隊長は、「まことに、この人は神の子だった」と告白しました。異邦人でありながらイエスの死の姿を正面から見つめ、その中に神の真実を見出したのです。私たちの信仰もここから始まります。十字架を見上げ、「この方こそ私の救い主だ」と信じることが、救いの第一歩です。
イエスの十字架の死は、私たちの罪のためでした。この死によって神への道が開かれ、私たちは神を礼拝し、永遠の命にあずかる者とされたのです。この救いの恵みに心から感謝しイエスに従う者として歩んでいきましょう。
2025年4月6日
説教題 「一粒の麦」
聖書箇所 ヨハネによる福音書12章20~26節
説 教 安井 光 師
過越祭の時、イエスのもとには異邦人のギリシャ人たちがやってきて、「イエスにお会いしたい」と願い出ました。彼らは神を求めて旅をし、フィリポとアンデレをとおしてイエスのもとへと導かれました。この出来事をとおして、イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と語られます。それは、世が期待するような勝利の栄光ではなく、十字架の死と復活をとおして現れる、神の救いの栄光を意味していました。
イエスはご自身を「一粒の麦」にたとえます。麦が地に落ちて死ななければ、ただの一粒のままですが、死ぬことで多くの実を結ぶように、イエスも十字架でご自身の命をささげて、この世に永遠の命をもたらされるのです。この救いはユダヤ人だけでなく、異邦人に、時代を越えて私たちにも届いているのです。
今、世界には23億というクリスチャンがいます。その一人一人が一粒の麦であるイエスが結んだ実なのだと思うと、ただ感謝するしかありません。イエスが命を惜しまずささげられたからこそ、私たちは今日、救いにあずかっているのです。イエスが与えてくださった命は、私たちを新しい歩みへと導いてくださるものです。
イエスは、弟子たち、つまり私たちにも一粒の麦となることを願われます。自分の命を自分のためだけに使うのではなく、神にゆだねていく、その生き方をとおして、さらに豊かな実が結ばれていくのです。私たちが「地に落ちて死ぬ」とは、自分中心の生き方を手放し、神に明け渡すということです。
たとえ、私たちの証や働きが小さなものに見えても、それが誰かをイエスのもとへ導くきっかけとなるなら、それは「多くの実を結んだ」とイエスが言ってくださることでしょう。私たちが神に従い続ける中で、多くの実が結ばれることを信じ、その喜びを分かち合うことができるように日々歩んでいきたいと思います。
私たちは、イエスの命によって生かされたまことの命を帯びた者として、今この地に蒔かれています。主の恵みに感謝しながら、自分の命を神にゆだね、イエスに従って生きていく。その歩みの中で、主が私たちをとおして実を結ばせてくださるのです。私たちの歩みをとおして、多くの人々に神の愛が伝わり、主の栄光が現れるのです。
私たちのために一粒の麦となられたイエスを覚え、私たちも主の愛を受け取り、愛に生きる者として用いられていきましょう。主の招きに応えつつ、豊かな実りが与えられることを信じて、日々の歩みを重ねてまいりたいと思います。
2025年3月30日
説教題 「誰がいちばん偉いか」
聖書箇所 マルコによる福音書9章30~37節
説 教 安井 直子 師
イエスは「ご自分の死と復活の予告」を弟子たちにもう一度語られました。しかしこの時も弟子たちはイエスの語られた言葉を悟らず、また尋ねることもできませんでした。その後一行は、人々に気付かれないように、ガリラヤを通ってカファルナウムのある家に着きました。イエスは弟子たちに「道で何を論じ合っていたのか」(33)とお尋ねになりましたが、彼らは答えることが出来ずに、黙っていました。それは彼らが「誰がいちばん偉いか」と議論していたからです。これが弟子たちの関心事であり、イエスとは真逆の思いを抱いていたのです。
現代は競争社会で、能力がある者、権力者、金持ちが一番偉いとされて、社会の価値基準になっています。クリスチャンも気を付けなければ「誰が一番偉いか」と言う価値基準に捕らわれてしまい易いのです。
そこでイエスは座って、弟子たちを呼び寄せて言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(35)「そして、一人の子どもを連れてきて、彼らの真ん中に立たせ、抱き寄せて言われた」(36)「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」(37)と。ここで私たちが間違ってしまい易いことは、イエスの弟子として一番になるためには、人々に仕える者になれば良いとなり、熱心にやっている人が偉いという考えにすり替わってしまう危険があるということです。私はこれまで「幼子のように無力で、低く見られている者を、イエスの名のゆえに受け入れることが、人に仕える姿だという教え」と理解していました。でも、ある牧師は「イエスが語られる神の恵みの世界では、これは一つのことで、子どもが安心して自分を委ねることが出来ること、これが全ての人に仕えるという中にある姿であり、誰が一番偉いかなどに縛られない世界だということを教えておられる」と語られていました。
イエスは私たちのために、神の位を捨てて、僕となって私たちに仕える者となって下さいました。それは私たちが、誰が一番かと言う議論に縛られた世界から解放されて、幼子のように神に自分の身をゆだねることが出来る者にして下さったのです。私たちも、イエスの愛と赦しをいただいて、人々に仕える者にならせていただきましょう。互いに赦し合い、受け入れ合って生きる者とされたいと思います。
2025年3月23日
説教題 「右か左か」
聖書箇所 創世記13章1~18節
説 教 安井 満 師
この箇所には、人生の岐路に立つアブラハムと甥のロトの物語が紹介されています。私たちの人生の歩みにおいても、何回か人生の岐路に立たされることがあります。進学や就職の場合も、どの高校や大学に進むかで迷います。職場を探す場合でも、職種によって人生の方向が大きく左右されます。
アブラハム夫婦とロトは、カナンの地が飢饉に襲われたためにエジプトへ避難しました。「アブラムと妻を伴い、すべての持ち物を携え、エジプトからネゲブへと上った。ロトも一緒」でした(1節)。彼らはエジプトを追い立てられるようにして、カナンの地へ舞い戻ってきましたが、「アブラムは家畜と銀と金に恵まれ、大変に裕福」になっていました(2節)。アブラハムがエジプトで手にした富は、妻サラの犠牲によるものでした。
アブラハムは、「初めに祭壇を造った場所に行き、そこで主の名を呼」びました(4節)。アブラハムは、外見上は非常に富んでいたのですが、霊的・精神的には危機的な状況にありました。霊的な祝福をいただくために、カナンの地に帰ると、まず初めに築いた祭壇の所に行き、主の名を呼んだのであります。
アブラハムとロトとはこれまで常に行動を共にしてきました。ところが、共に歩むことができなくなりました。アブラハムは多くの家畜の所有者となり、ロトもまた家畜を多く所有していました。叔父と甥は仲良くできても、彼らの牧者たちの間に争いが頻発していました(7節)。財産が多く、一緒に住むことができなかったのです(6節)。アブラハムとロトの話し合いの結果、別々の場所で生きていくことになりました。
どの場所を選びとるかについては、アブラハムが家長ですから優先権があります。しかし、アブラハムのロトに対する提案は「あなたが左にと言うなら、私は右に行こう。あなたが右にと言うなら、私は左に行こう」(9節)というものでした。アブラハムはロトに優先権を与えました。大喜びでロトが選び取った場所は、「主の園のように、またエジプトの地のように…潤っていた」(10節)土地でした。その土地は滅びる前のソドムとゴモラでした。
アブラハムに残されていたのはカナンの高地でした。主はアブラハムに対して語りかけています。「あなたは自分が今いる所から北、南、東、西を見回してみなさい。見渡すかぎりの地を、私はあなたとあなたの子孫に末永く与えよう」(14∼15節)と。アブラハムに与えられた土地は生活には不便で不利な地域でした。その地で彼の信仰が養われることになります。
2025年3月16日
説教題 「まことの王イエス」
聖書箇所 ヨハネによる福音書12章12~19節
説 教 安井 光 師
過越祭が行われようとしていた時、イエスは弟子たちとエルサレムに上られました。イスラエル全土、また周辺地域から多くの巡礼者が訪れていました。イエスが死んだラザロを復活させた噂がエルサレム中に広まり、祭りに来ていた大勢の群衆がイエスを出迎えました。群衆はなつめやしの枝を手に持ち、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように イスラエルの王に」と歓声を上げながらイエスを迎えました。
イスラエルはローマ帝国に支配されていました。ヘロデ王がいましたが、民衆はローマに媚び諂う王ではなく、ローマを倒し独立を勝ち取り、ダビデ王朝のような栄えたイスラエル王国を復興させる強い王を求めていました。イエスが王となれば、国は変わり自分たちの生活も良くなると考えていたのです(ヨハネ6:14∼15)。イエスが政治的かつ民族的なメシアとしてイスラエルの新しい王となるのを期待しながら出迎えたのです。
いつの世も強い指導者を求めます。自国第一主義ということが近年言われます。困難な時代状況においては自国の利益が最優先されるのでしょう。人間、自分が大事です。しかしイエスがもたらそうとしておられたのはイスラエル一国の救いではなかったのです。ユダヤ人のみならず全世界の国民に救いをもたらすために、イエスはエルサレムに上られたのです。ろばの子に乗っての入城は、イエスがこの世にまことの平和をもたらすために来られたことを証ししています(15節、ゼカリヤ9:9∼10)。
平和や平穏な生活は、強い力を有することで得られるものではありません。国と国が争わなくても、人は小さな人間関係において互いに争い、自分中心に振る舞います。それは神と争う思い、罪から来ていると聖書は教えます。罪に支配されている私たち人間の世界に、神は独り子を救い主としてお遣わしになったのです。私たち罪人を神と和解させるために、神との勝ち目のない戦いを終わらせるために、イエスはまことの王として来られたのです。
私たちはイエスを心の王座に、生活の中心にお迎えしましょう。自分の国(領域)を明け渡し、心と生活の全体をまことの王イエスに治めていただきましょう。イエスは仕えられるためでなく仕えるために、罪人を贖うため十字架でご自身をささげるために来られた王です(マルコ10:45)。父なる神はこの御子イエスをまことの王として高く上げておられます(フィリピ2:6∼11)。十字架と復活の主イエスに「ホサナ」と声を上げ、王として迎えましょう。
2025年3月9日
説教題 「主の恵み深さに信頼する」
聖書箇所 マルコによる福音書9章14~29節
説 教 安井 直子 師
山の上ではイエスの姿が変わり、本来の栄光に輝く神としてのお姿を現されました。三人の弟子は驚き、そこに幕屋を建てて長く留まることを願うほどでした。
一方山の麓では、騒動が起こっていました。ある父親が息子の病の癒しを願いイエスのところに来ていて、イエスが不在だったので残りの弟子たちに祈ってもらったが、どうすることも出来ませんでした。弟子たちは大勢の群集に取り囲まれ、律法学者と議論して大騒ぎになっていたのです。クリスチャンが味わう「神の恵みの支配」と「現実社会の不信仰」に心が痛むのと似ています。
そこに山から下りてきたイエスが「何を議論しているのか」と尋ねると、父親が「お弟子たちに、息子に取りついた悪霊を追い出してもらいたいと願いましたが、できませんでした」と告げました。それを聞いたイエスは「何という不信仰な時代なのか」と心を痛めながら、人間の不信仰を嘆かれ、同時に深い憐れみをもって「その子を私のところに連れて来なさい」(19)と言われました。イエスは父親に「いつからこうなったのか」(21)と聞くと「幼い時からです。霊は…もしできますなら、私どもを憐れんでお助けください」(22)と訴えました。この言葉は父親の苦悩や疑念が入り混じった心を表していました。主を信じたいけれど、信じ切れない心が見て取れます。私たちも同じような祈りをしてしまいます。
しかしイエスは「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる」(23)と語られ、信仰の世界に呼び込んでくださいます。イエスは「不信仰の隠れ蓑」を脱ぎ捨てて、主を信じ、主の恵み深さに信頼するように招いておられます。信仰の目が開かれた父親は「信じます。信仰のない私をお助けください」(24)と叫びました。父親は自分の不信仰を素直に認め、悔い改めて主の恵み深さにすがりました。イエスが「ものを言わせず、耳も聞こえさせない霊。私の命令だ。この子から出ていけ。二度と入って来るな」(25)と祈ると、霊は叫び声を上げ息子を痙攣させて出て行きました。息子はイエスが手を取って起こすと立ち上がり、すっかり癒やされていました。息子も父親もどんなに嬉しかったでしょうか。
この後ひそかに弟子たちは、「なぜ、私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」とイエスに尋ねるとイエスは「祈りによらなければ追い出すことはできないのだ」と言われ、信仰の祈りの大切さを伝えます。
日々、私たちも自分の弱さや不信仰を認めて、主の恵み深さに信頼して祈っていきたいと思います。
2025年3月2日
説教題 「真心からの献げもの」
聖書箇所 ルカによる福音書21章1~4節
説 教 安井 光 師
イエスは神殿で人々に教えを語られた後、人々が献金箱に献金を投げ入れているのをご覧になりました。金持ちはたくさんのお金を投げ入れました。ジャラジャラと大きな音が鳴り響いたことでしょう。その後、貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚を投げ入れました。それはわずかな額のお金でした(1レプトンは1デナリオン-労働者日当-の130分の1)。金持ちは見栄を張ってたくさん献金を入れ、得意顔でした。
一般社会において、多く金額を募金・寄付したほうが評価されます。人間の評価はそうかもしれません。しかし神の評価は異なっているのです。イエスはやもめのレプトン銅貨二枚の献げものを見て、「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた」と賞賛されました。金持ちと比べて「たくさん」というのでなく、貧しいやもめにとっての「たくさん」だったのです。やもめにとっては生活費全部であったとしても、神殿からすれば目にも留らないような献金だったことでしょう。しかしイエスは献げもののみならず、献げるその人を、その生活と心をご覧になるのです。
「確かに言っておく」は原文では「アーメン」(真実である、そのとおりである)となっています。イエスはやもめの真心からのささげものに、「これは真実な献げものである」と言って喜ばれたのです。真心のからのささげものとは、痛みが伴っています。口語訳・詩篇51篇17節に「神の求められるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」とあります。神は、神に対して開かれた心、神の前に謙った心を求められるのです。自然にというより意識的にそうする心がけが必要です。
宣教師にして探検家であったリビングストンは、少年時代に集会で献金するお金がなく、自分の身を献金のお盆の上にのせ、「私自身を神さまにささげます」といって、自らの生涯・将来を神に献げたと言われます。けれども忘れてはなりません。私たちが何かを献げる以前に、神が私たちのために御子イエスの十字架の死という高価な献げものをおささげになったことを(エフェソ5:2)。神への献げもの・献金は私たちの善き行いでもなく、強いられてするものでもありません。ただ神の恵みに感謝し、その応答としてレプトン銅貨二枚を献げたやもめのように真心から精一杯するものなのです。神はそのような献げものを「アーメン」と喜んで受け入れて下さるのです。
2025年2月23日
説教題 「幕屋の建設」
聖書箇所 出エジプト記25章1~22節
説 教 安井 光 師
主なる神はイスラエルの民と契約を締結されました(24章)。約束の地を目指して歩む、神の民としての生活がいよいよ始まります。神はイスラエルの民に命じて幕屋を造らせました(25∼27章)。それはイスラエルが神を礼拝するためでした。真の神を礼拝する民となるということが、イスラエルの民がエジプトから贖い出された本来の目的でもありました。
神は幕屋建設のために民が「心から進んで献げる」奉納物を必要とされました。幕屋とともに、幕屋で用いる祭具も造らせました。契約の箱(10∼22節)は、十戒が刻まれた「証しの板」が入れられ、幕屋の奥の部屋、「至聖所」に安置されました。神はこの上(ケルビム)に臨在されました。契約の箱を覆う「贖罪の座」には、年に一度(贖罪日)、全イスラエルの贖罪のために犠牲の血が注がれました。その他、供えのパンを置く台や黄金の燭台などが造られました(23∼40節)。幕屋はアカシヤ材で造られた骨組みを亜麻のより糸など4種類の天幕で覆い、その上を3種類の動物の毛皮で覆いました(26章)。幕屋の内部は聖所と至聖所を仕切る幕が設けられ、至聖所には年に一度大祭司だけが入ることができました。幕屋はイスラエルが神を礼拝する場として設けられました。神がイスラエルの中に住むため、イスラエルが神を中心とした生活を送るために幕屋が造られたのです(8節)。
私たちにとっての幕屋とは、視覚的・物理的には礼拝堂であると言えますが、霊的な意味ではイエス・キリストであります。キリストは、私たち罪人と神との交わりを回復させるために、幕屋を張るようにしてこの世に来られたのです(ヨハネ1:14「宿る」は「天幕を張る」の意)。モーセの時代の幕屋は、真の幕屋であるキリストの雛形に過ぎないのです。私たち人間は罪によって汚れており、そのままでは神の前に出ることはできません。ただキリストが十字架で流された血によって、罪を赦され、きよめられることによって、はばかることなく神の御前に出ることができ、神と交わることができるのです(ヘブライ9:9∼12、10:19∼ 20)。キリストは十字架の死をもって、神と罪人を隔てていた幕(罪の中垣)を取り除いて下さったのです(マルコ15:37∼38、エフェソ2:13∼ 14)。
私たちはイエス・キリストによって真の神を礼拝する者とされています。神は礼拝の場に臨在され、礼拝する者の内に住まわれます。私たちはキリストによって「神の宮」とされています(Ⅰコリント3:16)。ですから、喜んで自分自身を主に明け渡しましょう。
2025年2月16日
説教題 「香油を注ぐマリア」
聖書箇所 ヨハネによる福音書12章1~11節
説 教 安井 光 師
過越祭が近づき、イエスは弟子たちとベタニアに行かれました。イエスのために夕食が用意されましたが、それはラザロの復活を祝う感謝会だったかもしれません。マルタはイエスに対する感謝の心で喜びをもって給仕をしていたことでしょう。
すると「マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪で拭った」のでした。マリアが高価な香油を惜しみなくイエスに注いだのは(マルコ14:3)、兄弟ラザロをイエスは生き返らせてくださったからでしょう。マリアは香油を注いでイエスに感謝と愛を表わしたのです。マリアが香油をイエスに注いだ行為は礼拝の行為でした。
弟子たちはマリアの行為を見て憤慨しました(マタイ26:8)。弟子たちには無駄遣いに思え理解できなかったのです。ユダは「香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施」すべきだったとマリアを非難しました。もっともらしい批判ですが、これは真実な思いから出ている言葉ではありませんでした(6節)。ユダは頭の中で算盤を弾き、損得勘定でマリアの行為を捉えたのです。
私たちは毎日曜日礼拝をささげます。私たちは教会に行って主を礼拝することを無駄な時間とか経済の浪費とは考えないでしょう。私たちには無くてはならない大切な時間であり、全存在をかけて主を礼拝しています。礼拝とは献身であると言われます(ローマ12:1)。マリアの行為は、自分の持ちものをどう使うかを他人が干渉すべきでないとか、人は自分のやりたいことをやりたいようにすればよいということを教えているのではありません。私たちがささげる礼拝も賛美も祈りも献金も奉仕も人が善し悪しを決めるのではなく、これをお受けになる主なる神が判断なさるのです。
イエスはマリアの真心からの礼拝を良しとされ受け入れられました(7節、マタイ26:10)。見方を変えれば独りよがりで一方的な行為とも言えますが、「私の埋葬の日のために…」とイエスは言われ、マリアの行為に幸いな意味を読み取られたのです。 私たちの礼拝が神に受け入れられるのは、私たちがきよく正しいからではなく、御子イエスが完全ないけにえとしてご自身を十字架でささげられたことによります。私たちは贖いの恵みを噛みしめながら、神に喜ばれる聖なるいけにえとして全身全霊をもって礼拝をささげたいと思います。イエスが芳しい香りのささげものですが(エペソ5:2)、私たちもイエスの芳しい香りを放つ礼拝をささげてまいりましょう(Ⅱコリント2:15)。
2025年2月9日
説教題 「栄光に輝くイエス」
聖書箇所 マルコによる福音書9章2~13節
説 教 安井 直子 師
イエスは弟子たちの中から、ペトロ・ヤコブ・ヨハネだけを連れて高い山に登られました。するとイエスは三人の弟子たちの目の前でその姿が変わり、イエスのお体がまぶしく光を放ち輝き始めたのです。それはこの地上の誰も真似できないような白さでした。弟子たちは、イエスの本当の姿である栄光に輝く神としてのお姿を見たのです。さらに、今度は旧約聖書を代表するエリヤとモーセが現れて、イエスと語り始められたのです。並行箇所のルカ9:31には「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて話していた」とあるように、イエスの十字架を指していることが分かります。神の救いを完成するために立てられ十字架に向かって進もうとするイエスを励ますためにエリヤとモーセが神から遣わされたのでしょう。
するとペトロはあまりの出来事に驚いて、思わずイエスに向かって「先生、私たちがここにいるのはすばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう…」(5節)と語りました。私たちもとても素晴らしい経験をした時はそこにずっといたい、そしてそれがずっと続いて欲しいと思うものです。ペトロたちも天国のような祝福の中にずっと留まっていたかったのでしょう。ペトロはこの神の臨在と栄光を特定の場所に限定しようとしましたが、神はそんなお方ではないのです。神は今も私たちと共におられるお方です。
その時雲の中から神の声が響き渡りました。「これは私の愛する子。これに聞け」(7節)。父なる神ご自身が、御子イエスを愛する子と呼び、彼に聞くように命じられたことを通して、イエスは神の子であることを、神ご自身が証しされたのです。弟子たちはこの祝福の中に留まりたかったのでしょうが、神のみこころはイエスに聞き従うこと、もっと言うならば「自分の十字架を負って私(イエス)に従ってきなさい」と言うものでした。すると雲は消え、エリヤとモーセの姿もなくただイエスお一人だけになっていました。
イエスは山を下りながら「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と弟子たちに命じられました。
私たちも日常生活の場で「これに聞け」と語られる神の言葉に聴きつつ、それに従って生きていくことが求められています。十字架にかかり復活されたイエスは、今は栄光の姿を取られて天におられます。そして再び来られる時に、私たちをその栄光の輝きの中に迎え入れてくださるのです。
2025年2月2日
説教題 「イエスは復活であり命」
聖書箇所 ヨハネによる福音書11章17~44節
説 教 安井 光 師
マルタとマリアの兄弟ラザロが病気で亡くなりました。イエスが到着したのは、ラザロが墓に葬られて四日後のことでした。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。マルタとマリアは愛する家族を失い、いたたまれない思いだったでしょう。ラザロが死にそうな時にイエスが側にいてくださらなかったこと、またラザロの死ぬのをイエスが許されたことに対し、二人はやり切れない気持ちをイエスに訴えたのです。
マルタにとって兄弟の死は信仰を激しく揺さぶる出来事でしたが、彼女はイエスへの信頼を失いませんでした(22、27節)。イエスは「あなたの兄弟は復活する」とマルタを励まされます。マルタは「終わりの日の復活…は存じています」(参照ダニエル12:2)と言いますが、知っているのと信じているのとでは大きく違います。必ず成就する神の約束として信じることを、御言葉を信じて生きることをイエスはマルタに願われたのです。
「私は復活であり、命である」とイエスは自己宣言されました。イエスが復活の始めであり命の源なのです。死を死で終わらせないのです。「私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない」と言われます。イエスを信じる者は終わりの日の復活のみならず、復活であり命であるイエスに結び合わされ、もはや死んだ者ではなく霊的に復活し滅びから救われて、イエスの賜わる新しい命、永遠の命に生きる者となるのです。
愛する者との死別ほど辛く悲しいことはありません。人生に容赦なく襲いかかる死の力に対し、私たちはまことに無力です。イエスは死の力に対峙し対決されました。死の力に屈服し狼狽えている人類の現実を目の当たりにされ、激しく心を震わせ、深く憐れまれ涙を流されました(33∼34節)。マルタはイエスを神の子メシアと信じていましたが(27節)、神の栄光(44∼45節)を見るために不信仰という心の石を取り除けることをイエスはマルタに求められました(38∼40節)。
ラザロは復活しましたが、再び死と向き合うことになります。マルタとマリアもそうでした。しかし彼らは「私は復活であり、命である」と言われるイエスを信じるので「死んでも生きる」のです。「決して死ぬことはない」のです。これこそイエスを神の子メシアと信じる者たちに与えられる救いなのです。イエスを信じる者は死んだとしても生かされたとしても、復活であり命であるイエスに結び付いているので死に打ち負かされず死に打ち勝つのです。
2025年1月26日
説教題 「蟻を見よ」
聖書箇所 箴言6章6~11節
説 教 安井 光 師
「怠け者よ…」とは随分厳しい呼びかけですが、全く心当たりがないとは言い切れないでしょう。イエスも弟子たちに「信仰の薄い者たちよ」と呼びかけておられ、「耳のある者は聞きなさい」と愛をもって語りかけておられます。箴言の著者は、怠惰な者に向かって「蟻のところに行け。その道(生態、生き様)を見て、知恵を得よ」と命じています。
「蟻には指揮官もなく、役人も支配者もいない」と言われます。蟻は女王蟻を頂点にした組織を持ちますが、女王蟻が命令したり指示したりするわけではなく、それぞれの蟻が自分の役割を自覚し、やるべきことを行います。乾燥地帯に生息する収穫蟻は、雑草の種を巣に運び入れ、貯蔵する生態を持ちます。秋頃、雑草が種を実らせる時期に活動し、一年分の餌としてせっせと種を巣穴に溜め込むのです。「夏の間に食物を蓄えても、刈り入れ時にもなお食糧を集める」とは、そのような収穫蟻の生態を示しているのでしょう。
エジプトの宰相ヨセフは大飢饉に備え国家規模で食糧を蓄えました。ヨセフはエジプトに大豊作と大飢饉が来ようとしていることを神から知らされ、大豊作の時に食糧を蓄えさせました。その後、大飢饉がエジプトと周辺地域を襲いますが、ヨセフの政策によってエジプトの国民もヤコブ一族も助かったのです。ヨセフは試練をとおして多くを学び、神からたくさんの知恵を与えられたのでしょう。困難な状況でも神に信頼し、神が置かれた所で神が与えられたことを黙々と行いました(創世記39∼41章)。その結果、父ヤコブや兄弟たちが救われたのです(創世記45:7)。
蟻のように勤勉で将来のためにきちんと備えている人々にとっては、「怠け者よ…」(9∼10節)という言葉が他人事に聞こえるかもしれません。でもこれは単なる怠惰な人間の話ではないのです。「眠り…まどろみ…横になる」とは霊的に眠った状態を指しているのです。イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と言われました。また終末は「盗人のように来る」とも言われています。人生の冬を迎える日に「貧しさ」や「乏しさ」に苛まれることがないよう、「蟻を見よ」と主は言われるのです。
主は霊的な収穫のために労することを私たちに願っておられます(ヨハネ4:35∼36)。蟻は小さくて大きな力はありませんが、自分のなすべきことに集中しています。主は私たちに対し、蟻より遥かに優れた賜物と尊い使命を与えておられます。そのことを心に留めながら、日々歩ませていただきましょう。
2025年1月19日
説教題 「死で終わるものではない」
聖書箇所 ヨハネによる福音書11章1~16節
説 教 安井 光 師
マルタとマリアとラザロはベタニアに住む仲の良い三人姉弟でした。イエスがエルサレムに行かれる折には、彼らの家を宿とされ教えを説かれるのでした(ルカ10:38∼)。三人はイエスを愛し慕っており、イエスも三人を愛され心にかけておられました(5節)。ある時、ラザロが重い病気になりました。マルタとマリアは使いをやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」とイエスに伝えました。これはイエスに信頼する者たちの切実な訴えであり祈りでありました。
イエスは愛する者たちの訴えを聞かれこう言われたのです。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。ラザロは病気で死んでしまいますが(17節)、死では終わらないと言われたのです。イエスは病人を癒されるだけでなく、死人を生き返らせるのです(43∼44節)。そのことによって神の栄光を現わされるのです。イエスご自身、死人の中から復活なさり、死に対する勝利をもたらす救い主であることを明らかになさるのです。
二日経ってから、イエスは弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう」「私の友ラザロが眠っている。…私は彼を起こしに行く」と言われました。ラザロは病気で床に眠っているのではありませんでした。ラザロは死んだのです(13∼14節)。「眠っている」とイエスが言われたのは、眠っている者を起こすようにラザロを復活させるからなのです。ラザロの復活は、イエスの復活の先取りだったのです。イエスは弟子たちに「あなたがたが信じるようになるためである」と言われていますが、彼らやマルタら姉弟をさらに深い信仰(復活信仰)へ導こうとしておられたのです。
使徒パウロは、イエスを信じイエスに希望を抱いて人生を終え死んだ人たちを「眠りに就いた人たち」と呼んでいます(Ⅰテサロニケ4:13)。彼らは眠ったままではないのです。終わりの日にイエスが起こされる(復活させる)のです。イエスが死者の中から復活し眠りに就いた人たちの初穂となられたので、イエスを信じる者たちも死んで終わりではないのです(Ⅰコリント15章)。
人生には死を思わせる困難や試練があります。祈っても思うような答えが与えられず失望することもあります。しかしイエスは愛する者たちを失望で終わらせることはありません(ローマ5:3∼5)。私たちに与えられている希望は、イエスの復活に根差しています。死を打ち破り、死に勝利されたイエスが私たちに勝利を約束しておられます。
2025年1月12日
説教題 「神と御子は一つ」
聖書箇所 ヨハネによる福音書10章22~42節
説 教 安井 光 師
冬の季節、エルサレムでは神殿奉献記念祭(ハヌカ)が行われました。イエスが神殿の回廊を歩いておられると、ユダヤ人たちが「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」とイエスに詰め寄ってきました。ユダヤ人たちはイエスを訴える口実を得ようとしていたのです。「私は言ったが、あなたがたは信じない」「あなたがたは…私の羊ではない」とイエスはユダヤ人たちに言われました。ユダヤ人たちは、自分たちが神の許からはぐれた羊だと思っていなかったのです。自分たちは正しい道を歩んでおり迷っていないと思い込み、イエスの声に聞き従おうとしなかったのです(9:40∼41)。
イエスは目の見えない人を見えるようにされたり、五千人の人々に食物を与えたり、多くの神の業を行ってこられました。それでもユダヤ人たちはイエスを神の子メシアと認めず、「イエスを石で打ち殺そうと」しました。「神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」と主張します。しかしイエスと神とは一体でした(30節、1:1∼3、14∼18)。御子イエスは父なる神に全く信頼し服従され、父なる神は御子イエスを信任し全権を委ねておられました(5:19∼20、6:40)。御子と御父との相互の愛と信頼に、「私と父とは一つである」と言われる一体性が明示されているのです。
ユダヤ人たちは高慢で心頑なでしたが、イエスを神の子メシアと信じる者たちがいました。それは弟子たちでした(マタイ16:13∼20)。「私の羊は私の声を聞き分け…私に従う」とイエスは言われます。「私に従ってきなさい」とイエスに呼ばれた時、弟子たちは持っているものを置いて素直に従いました。彼らは自分たちが迷える羊であり、イエスの導きが必要だと悟ったのです。イエスが信じる者に賜わる「永遠の命」は「滅び」ることがない命です(28∼29節、3:16)。良い羊飼いであるイエスの声に聞き従う者は、イエスに守り導かれ、神との永久の交わりを持つことになるのです(詩編23編)。イエスを信じる者たちは神の愛に結ばれているのです(ローマ8:38)。
イエスを信じる者たちもイエスと一つに結び合わされています(ヨハネ15:1∼17)。御子と御父との交わりに招き入れられたのです(Ⅰヨハネ1:3)。この交わりはイエスが「一つである」と言われるほどに強固で親密なのです。神から来る愛と信頼によって結ばれています。私たちはイエスの十字架の贖いにより、イエスを神の子メシアと信じる信仰によって、神の子とされ神を父と呼ぶ者とされているのです。
2025年1月5日
説教題 「ペトロの信仰告白」
聖書箇所 マルコによる福音書8章27~38節
説 教 安井 直子 師
フィリポ・カイサリアは皇帝崇拝の盛んな町であり、牧神パンの神を拝む偶像崇拝の根強い場所でした。
イエスは弟子たちとフィリポ・カイサリア地方に出かけられ大切な質問をされました。「人々は、私のことを何者だと言っているか」(27)と。弟子たちは「洗礼者ヨハネ、エリヤ…預言者の一人だという人もいます」と答えました。しかしそれは、イエスに対する本当の評価・理解ではないのです。
そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」ペトロが「あなたは、メシアです」(29)と答えました。このペトロの信仰告白は、これまでのペトロからは考えられないような答えでした。並行記事のマタイ16:17でイエスはペトロがこのように信仰告白が出来たのは、彼の知識や理解によるものではなく聖霊の働きによるもので、父なる神の御業であると教えられました。
私たちクリスチャンも「イエスは主である」と信仰を告白して救われたのですが、今も主は私たちに対して「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問いかけておられます。私たちはこの主イエスの問いかけにどのようにお答えできるでしょうか。それは①「礼拝の場において」賛美や祈りをささげることを通して「あなたは、メシアです」と信仰告白していくことです。そして②「日常生活の場において」私たちは日々のデボーションや祈りにおいても「あなたは、メシアです」といつもこのように告白します。教会以外の場で自分の信仰を言い表すことは難しいこともあります。迫害を受けるかもしれません。しかしどんな時でも「イエスこそ私の救い主、生ける神」と信じて生きることは主イエスが願われていることです。
イエスはペトロの信仰告白を聞くと、ご自分のことを誰にも言わないようにと弟子たちを戒められました(30)。そしてこれからご自身が苦しみを通り、十字架で殺され、三日後に復活するということを教え始められました「すると、ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた」(32)のです。イエスは振り返ってペトロに「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」(33)と言われました。模範的な信仰告白をしたペトロが、今度は叱られてしまいました。イエスにとってそれはサタンからの誘惑なのです。そして「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(34)と言われました。
私たちはいつでも「あなたは、メシアです」と信仰を告白し、イエスの言葉に聴き従って生きる者でありたいと思います。
2024年12月29日
説教題 「ここが私の父の家」
聖書箇所 ルカによる福音書2章41~52節
説 教 安井 直子 師
ルカによる福音書だけがイエスの幼少期を記しています。イエスの両親であるヨセフとマリヤは、毎年過越の祭にはエルサレムの都に上りました(41)。
両親はいつものように親戚や知人たちと一緒に12歳になったイエスを連れてエルサレムに上りました(42)。祭も終わり両親はイエスが親戚たちと一緒にいるだろうと思い、自分たちだけで一日の道のりを進んでしまったのです。しかしイエスがいないことに気付き、急いでイエスを捜しながらエルサレムに引き返しました。三日目にようやく見つけたイエスは、エルサレムの神殿の境内で、聖書を教える教師たちの真ん中に「座って」話を聞き、質問しているのを見つけました。加藤常昭先生は「この座ってと言う言葉は特別な意味があり、これは教わる者の姿を表す。ここで座っている少年イエスは、真剣に神の言葉を教える者たちから、神の言葉を聞くことに熱中している少年イエスの姿を示している」と解説されています。「聞いている人は皆、イエスの賢さとその受け答えに驚嘆して」(47)いました。両親はその光景に驚きながら安堵しました。母マリヤは「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」(48)とイエスに言いました。するとイエスは「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」(49)と逆に驚いて言いました。でも両親はこの時イエスの言葉の意味を理解できませんでした。イエスが神殿に居たことを「私が自分の父の家にいる」と告げたことによって、決して大人になってから「まことの神」となられた訳ではないということが分かります。ルカ福音書は明確にそのことを記しています。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた」(ヨハネ1:12)のように、私たちにとっても神は「私の父」なのです。私たちもいつも天の父なる神様を意識して生きていくことを心に覚えたいと思います。
この後イエスは両親と共にナザレに帰りヨセフとマリヤの子として過ごし、両親に仕えられました。母マリヤはこれらのことをみな心に留めていました。「イエスは神と人から恵みを受けて、知恵が増し、背丈も伸びていった」(52)のです。
私たちも「神の家」である教会に繋がり、神の言葉を聴き、神に仕え奉仕する者でありたいと思います。そしてイエスのように神様を私の父と呼び、み心にかなった道を歩んで参りましょう。
2024年12月22日
説教題 「救い主を礼拝する」
聖書箇所 マタイによる福音書2章1~12節
説 教 安井 光 師
救い主の降誕はユダヤから千キロ以上離れた「東方の博士たち」にも知らされました。博士たちはバビロニアの占星術学者でした。彼らは星を調べていて、不思議に輝く星を発見し、その星に導かれて「ユダヤ人の王(メシア=救い主)としてお生まれになった方」を「拝みに来た」のです。
博士たちはエルサレムに到着し、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とヘロデ王に尋ねました。祭司長や律法学者たちが調べると、ミカ書5章2節に記されている「ベツレヘム」だと分かりました。ベツレヘムはイスラエル王国のダビデ王が生まれた地でした。その地から「一人の指導者」が現われ「イスラエルの牧者となる」こと、すなわち民を導く救い主が起こることを神が約束しておられたのです。
ヘロデは自分の立場を脅かす存在が現われたことに「不安を抱」きました。「エルサレムの人々も皆、同様」でした。ヘロデは二歳以下の男の子を殺すよう命じますが(16節)、人々は社会が混乱し自分たちの生活が脅かされることを恐れたのです。祭司長や律法学者たちは神が救い主を与えてくださるのを知っていました。ところが無関心でした。博士たちと共にユダヤの新しい王を、救い主を捜しに行く者はおらず、博士たちの他に救い主を礼拝しようとする者はいなかったのです。
博士たちは救い主、幼子イエスに会い、「ひれ伏して…拝み」ました。博士たちは学識のある身分の高い人たちでしたが、自分よりも小さな貧しい家の赤ちゃんの前に額づいて礼拝したのです。「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」のでした。博士たちは、大事なもの、手放しがたいもの、また自分にはどうすることもできないもの、すべてをかなぐり捨てて救い主を礼拝したのです。
「クリスマス」は、Christ(キリスト)とMass(ミサ=礼拝)という二つの語からなります。東方の博士たちが御子イエスに献げた礼拝こそ、クリスマスが何であるかを示しているでしょう。神は私たち罪人を救うために御子を十字架で犠牲としてささげてくださいました。私たちは御子の十字架の贖いに感謝し、神の子とされている恵みを覚えながら、それに相応しく自らを神に献げ、神にすべてを明け渡して礼拝すべきなのです(ロマ12:1)。
博士たちは救い主を礼拝する者として歩み始めます(12節)。私たちは自らをささげ心から救い主イエスを礼拝するとともに、クリスマス礼拝の場から心新たに主の導きを仰ぎ求めつつ歩ませていただきましょう。
2024年12月15日
説教題 「良い羊飼いイエス」
聖書箇所 ヨハネによる福音書10章1~21節
説 教 安井 光 師
羊は一匹ではなく群れをなして行動します。視力が弱く方向音痴で外敵から身を守ることができません。羊は羊飼いに飼われ導かれなければ生きられない動物でした。羊飼いが羊の群れを牧草地や水場へと移動させるのです。夜には「羊の囲い」に入れて群れを休ませます。朝になると、羊飼いは羊たちの名を呼び、羊たちは羊飼いの声に従い、羊飼いが先頭に立って野に出て行くのです。
羊は私たち人間とよく似ています。人間は近視眼的で見えるものや目先の物事にとらわれ、迷いやすく道を逸れやすく思わぬ落とし穴に落ち込むことがあります。聖書は人間を羊に譬えています。人間とは羊飼いである神に導かれて生きるべき羊なのです(詩編23編)。ところが、人間は羊飼いの許からはぐれた羊のように神の許を離れ、各々自分勝手な方向を歩んでいるので行くべくところが分からず迷っているのです(イザヤ53:6)。イエスはそのような世の有様をご覧になり、深く憐れまれたのです(マタイ9:36)。
イエスは「私は羊の門である」と宣言されました。世の指導者たち(王、祭司、偽預言者)は羊を正しく導かず「盗人」や「強盗」のように羊たちを虐げていましたが、イエスに導かれるならば、羊たちは牧草にありつき豊かな命に与ることができるのです(9節)。イエスこそが御国の門であり、永遠の命に至る門であるのです(ヨハネ14:6)。神は迷える羊たちを導く羊飼いとして御子イエスを世に遣わされたのです。イエス・キリストは罪人を救い、神の命に導くまことの羊飼いなのです。
「私は良い羊飼いである」とイエスは言われます。イエスは失われた羊を捜し出して救うために世に来られました(ルカ15:4∼6、19:1∼10)。羊に命(ゾーエー:霊的な命、復活の命、永遠の命)を豊かに得させるために、イエスはご自分の命(プシュケー:肉体の命)を捨てられるのです(10∼11節)。イエスがお与えになる命は、神に結び付く命、神と交わりを持ち、神と共に生きる命です。私たちにこの命を得させるために、イエス・キリストは十字架で死なれ、死者の中から復活されたのです(17∼18節)。
「私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない」とイエスは言われています。私たちはイエス・キリストに導かれ豊かな命に生かしていただくとともに、このクリスマスに一人でも多くの人が良い羊飼いであるイエスに出会うことができるように、救い主イエスに導かれる豊かな人生を歩み出すことができるように祈りましょう。
2024年12月8日
説教題 「四千人の給食」
聖書箇所 マルコによる福音書8章1~10節
説 教 安井 直子 師
「パンの奇蹟」が全四福音書に記されている唯一の奇蹟であることから、この出来事が多くの人々の心に残り広く語り伝えられたのかが分かります。
イエスがデカポリス地方のガリラヤ湖畔で、耳が聞こえず口の利けない人を癒された後、その噂を聞いて再び大勢の群集がイエスの周りに集まっていました。今で言う「野外伝道集会」が三日も続いていました。ここではイエスから「群集がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいるのに、何も食べる物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で動けなくなってしまうだろう。それに遠くから来ている者もいる」(マルコ8:2)と言われました。この「かわいそう」はもともと「はらわた」と言う意味の言葉で腹の一番奥底が動く様を表し、イエスの深い憐れみ・愛を表しています。
イエスは弟子たちがこの状況をどう対処するのかと見ておられたのでしょう。弟子たちは「この人里離れた所で、どこからパンを手に入れて、これだけの人に十分に食べさせることができるでしょうか」(8:4)あっさりあきらめている様子です。弟子たちは敗北主義に捉えられて「ない」と否定語で答えています。ある先生は「イエスのなさり方は、否定から不可能を引き出すのではなくて、その否定から肯定を引き出して、積極に変えるのです」と言われます。イエスは弟子たちの今手にあるものに目を向けさせて、わずかでも「ある」ことに気付くように導いておられるのです。
そこでイエスは群集に地面に座るように命じ、七つのパンを取り、感謝してこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになり、弟子たちが群集に配りました。また、少しの魚も同じようにして配りました。すると、四千人余りの群集は食べて満腹になり、余ったパン切れを集めると七籠になったというのです(8:6∼8)「五千人の給食」同様に、どんな小さなものでもイエスのもとに差し出して委ねるならば、イエスが受け止めて下さり祝福して下さることを教えられます。
この四千人へのパンの奇蹟は五千人へのパンの奇蹟の弟子たちへの追試とも言うべき出来事でした。同じような状況を通して、弟子たちがどう対応しイエスに願い求めることができるか、弟子たちの信仰を試しておられたのではないでしょうか。また五千人の群集はユダヤ人たちでしたが、四千人の群集はデカポリス地方の異邦人たちでした。イエスの愛・救いは全ての人に与えられる神の恵みであることを弟子たちに、私たちに教えておられます。イエスの御心に従う者となりたいと思います。
2024年12月1日
説教題 「エッサイの根株より」
聖書箇所 イザヤ書11章1~9節
説 教 安井 光 師
ダビデによって統一された王国は、北イスラエルと南ユダとに分裂し、高慢になり、主を畏れず、主に信頼せず、主との愛の関係を捨て去り、偶像礼拝に走り、悔い改めの勧告に聞き従わなかったため、主に裁かれ、アッシリアやバビロンによって滅びてしまいます。そのような時代背景にあって、イザヤのメシア預言がなされました。イスラエルとユダは切り倒された木の根株のようになるのです。しかしその根株から「一つの芽が萌え出で」「若枝が育つ」のです。この一つの新芽、若枝こそ、イエス・キリストでした。
イエス・キリストはダビデの家系から誕生されました(マタイ1:1∼、ルカ2:4他)。なぜイザヤは、ダビデではなくその父「エッサイの株から…」と預言したのでしょうか。エッサイは王家の人ではなく羊飼いでした。ダビデも元羊飼いでしたが、ダビデは偉大な王というイメージをイスラエルの民は持っていたことでしょう。民が求めたのはダビデのような戦いに長けた王様であり、ダビデ王朝のように栄えた国の復興を彼らは待ち望んでいました。しかし主はそのような人の思いの延長線上に救い主を起こそうとなさいませんでした。人の思いと罪とを断ち切り、御心を行われるのです。ただ全く別のところから救い主を起こされるのでなく、エッサイの根株であるダビデの家系から起こされたのです。
エッサイの根株より起こされる救い主には「主の霊がとどまる」と言われます。それは「知恵と分別の霊」「思慮と勇気の霊」「主を知り、畏れる霊」です。イエス・キリストがこれらの霊的資質を備えておられたことを、私たちは四福音書から確認することができます。イエスが公生涯を開始された時、「主の霊」がイエスの上に降り留まりました(マルコ1:10、ヨハネ1:32他)。イエスは御霊に満たされ、御霊に導かれて救い主の働きを行われます(ルカ4:1∼2、14、ヨハネ8:1∼11他)。イザヤの預言はイエス・キリストによって実現したのです(ルカ4:16∼21)。イエスは「主を畏れることを喜び」、神の御心に従われ(マタイ16:21∼、26:36∼56)、世の救いの業を成し遂げられたのです。
イザヤは救い主がもたらす御国の平和を預言しています(6∼9節)。それは神の支配なさる新しい世界です。イエス・キリストによって神の平和が実現するのです。イエス・キリストを信じる者たちの心に神の平和は既に与えられていますが、イエスが再び世に来られる日に完成し完全なものとなります。私たちはイエス・キリストを待ち望みつつ、アドベントを過ごしてまいりましょう。
2024年11月24日
説教題 「契約の書と契約の血」
聖書箇所 出エジプト記24章1~11節
説 教 安井 光 師
神はイスラエルの民と契約を結ばれました。契約が締結されるにあたり、「契約の書」が読まれ、「契約の血」が注がれました(7∼8節)。
「契約の書」とは、十戒とその後に続く内容です(20:1∼23:33)。神とイスラエルの民が結んだ契約には双方が果たすべき約束事が明示されていました。すなわち、神がイスラエルを神の民として祝福すること、イスラエルの民が神の御言葉に従うということでした。神から授かった契約の書をモーセが読み上げると、イスラエルの民は「主が語られたことをすべて行い、聞き従います」と誓約しました。契約の書は神の手で石の板に記され、律法としてイスラエルの民に与えられるのです(12節)。
私たちにとっての契約の書は旧新約聖書です。聖書は、神がイエス・キリストにより全人類と救いの約束を結ばれた契約の書です。この書には神が私たちを救い、永遠に至る祝福を与えるという約束が明示されています(Ⅱテモテ3:15∼ 17)。私たちには神がこの世に救い主として遣わされた御子イエスを信じること、御言葉に基づいて神を信頼しつつ生活することが求められるのです。ただ御言葉を守り行うためには、愛(御子イエスが十字架で示された神の愛)が必要不可欠です。
神とイスラエルの民との契約が締結されるにあたり、動物のいけにえがささげられました(5節)。いけにえが屠られ、その血が流されました。モーセはその半分を祭壇に注ぎ、もう半分をイスラエルの民に打ちかけて、「これは、主がこのすべての言葉に基づいてあなたがたと結ばれる契約の血である」と宣言しました。いけにえの血が契約の証であり、契約を保証するものとなりました。いけにえの血は、イスラエルの罪を贖うためのものだったのです。
私たちにとっての契約の血は、イエス・キリストが十字架で流された血です。神は御子イエスの血をもって私たちと新しい契約を結ばれたのです(マタイ26:26∼28、ルカ22:20)。イエスは動物のいけにえには成し得なかった完全な贖いをなされ、信じる者たちに永遠に至る祝福の保証となられたのです(ヘブライ9:11∼15)。私たちはイエスが十字架で流された契約の血によって、真心から生ける真の神に仕える者とされるのです(Ⅰペトロ1:18)。
神はこの契約のゆえに真実を貫かれます。私たちもこの契約に誠実であらせていただきたく思います。契約に示された神の愛と恵みに信仰をもって応答し、神を愛し御言葉に聴き従いつつ歩ませていただきましょう。
2024年11月17日
説教題 「わたしはアルファでありオメガである」
聖書箇所 ヨハネの黙示録22章12~13節
説 教 原田 憲夫 師
私たちは、普段は一日の初めと終わりしか意識しないのに、特別に「初めと終わり」を意識する日があります。実際の暦の上ではたった一日の違いなのに、その日が私たちの人生を大きく分ける日とさえなるのです。
私(原田憲夫師)には2016年夏に病に倒れた長女との地上での別れの日−永遠の国への旅立ちの日がそうでした。その日は全く突然やって来ました。だれの人生にも「初めと終わり」がある・・・何度も口にしてきた「その日」がこんな形で・・・。
「アルファであり、オメガである」。「アルファ」とはギリシア語のアルファベット最初の文字であり、「オメガ」は最後の文字です。「初めであり、終わりである」と語るお方は、過去・現在・未来において−時間・空間における無限の、永遠の存在者だと語っているのです。この無限の、永遠の存在者であるお方が、「初めと終わり」を避けることができない、永遠とは相容れない私たち−あなたや私−のところへ「報いを携えて来る」というのです。
「わたしはすぐに来る・・・報いを携えて」。この「報いを携えて来る」お方こそ、救い主イエス・キリストです。キリストは私たちを「永遠の国」へ招くために再び「来る」(キリストの再臨)というのです。
私たちが永遠と相容れない原因は、私たち人間が自らの創造者であるお方−神様に逆らった「堕罪」にあります。けれども、神様はご自分に背を向けた私たち人間を決して見放しはしませんでした。それどころか、神様はずっとそんな人間を深く慈しんでいたのです。
キリストを信じて「永遠のいのち」を。この神様の慈しみの心は、時が満ち、救い主キリストを通して現実となりました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ 3:16)。
救い主キリストは私たちの人生の「初めから終わりまで」すべて背負いました。「永遠(いのち)」を失う原因となった私たち人間の罪・過ちをすべて十字架の上まで運び、そこでご自分のいのちと引き換えに完全にそれを贖われたのです。そして三日目に復活し、ご自分を信じる人すべてに「永遠のいのち」を与えてくださるのです。
初めに触れた長女は詩篇23篇6節「主の家に住むこと」が彼女の希望でした。今、彼女はそこで永遠の安息を得ています。あなたも「わたしはアルファであり、オメガである」と語るキリストの心の中へ飛び込んでください! そして、今までの「人生を分ける日−永遠(いのち)−」を手にしてください!
2024年11月10日
説教題 「波の上の主」
聖書箇所 ヨハネによる福音書6章16~21節
説 教 安井 直子 師
イエスの「パンの奇跡」によってお腹が満たされた人々は、イエスを自分たちの王様にしたいと考えるようになりました。しかしイエスは人々を解散させて、弟子たちを舟に乗せて向こう岸に漕ぎださせてから、一人で山へ登られました。日も落ちて辺りは暗くなってきました。急に強い風が吹いてきて湖は荒れだしました。元漁師の弟子たちでさえも、いくら漕いでも舟は前に進みません。彼らはくたくたに疲れてしまいました。
すると向こうからイエスが、なんと湖の上を歩いて近づいて来られました。でも弟子たちにはそれがイエスだと分かりません。幽霊だと思い、恐ろしさのあまりガタガタ震えました。するとイエスは弟子たちに「私だ、恐れることはない」と言われました。力強いお声が嵐の中に響きました。「イエス様!」弟子たちは声をあげ喜んでイエスを舟にお迎えしました。イエスが舟に乗り込むと風がピタリと止み、すぐに向こう岸に着いたのです。
私たちにも弟子たちのように、突然大変なことや苦しいことが起こって、不安になったり悲しくなったりすることがあります。それは大人も子どもも区別なく、自分の力ではどうすることもできない事が起こってきます。
そして弟子たちはイエスに助けを求めるということを忘れてしまっていました。でもこの時のイエスは、離れた所にいた弟子たちが苦しんでいるのを知ってご自分から近づいて来て下さいました。そして力強く声をかけて下さったのです。
今も生きておられるイエスは、私たちが大変な時や苦しい時、私たちの信じる心が小さくなっていても、その小さな信仰の小舟に一緒に乗り込んで下さり「私だ、恐れることはない」と声をかけて下さいます。そして心の不安や恐れを取り除き、問題を解決へと導いて下さるお方です。イエスが舟に乗った時に嵐がやんだように、私たちが心の中にイエスをお迎えするなら心の嵐がおさまり、最善の道に導いて下さいます。
私たちはこのイエスを信じてお従いしていきましょう。どんなに不安な事があってもまずイエスに祈り求めて、お頼りしていきましょう。イエスは私たちの日々の歩みを支え守って下さり、私たちの最終目的地である天国まで導いて下さいます。私たちを恐れさせる問題に目を奪われるのではなく、イエスを仰ぎ見つつ、日々歩ませていただきましょう。
2024年11月3日
説教題 「良い知らせを伝える者」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙10章9~17節
説 教 安井 光 師
神はイエス・キリストによる救いにすべての人を招いておられます。救われるために必要なのは、「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」ことです。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」のです。この救いについては、人種も民族もいっさい区別がありません(12節)。この「良き知らせ(福音)」が一人一人の喜びとなるには、この知らせが伝えられまた聞かれなくてはなりません。
福音宣教が開始されて二千年が経ちました。日本においても宣教が行われ、迫害や弾圧を受けながらも、現在に至るまで福音が宣べ伝えられてきました。しかし尚多くの人々の心の思いは、「信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう」というものではないでしょうか。
「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」と、使徒パウロは福音を伝えることの素晴らしさを語っています。この言葉は元々イスラエルの民がバビロン捕囚から解放される知らせを告げる者を示しましたが(イザヤ52:7)、パウロはイエスの福音を伝える者を指して使っています。パウロ自身、「良い知らせを伝える者」でしたが、彼だけでなく先にイエスに救われた者たち、私たちクリスチャン一人一人が福音を伝える者となることをパウロは言っているのです。
「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができるでしょう」と、私たちは反論し弁明したくなります。牧師や宣教師、あるいは特別な賜物が与えられた信徒でなければ伝道できないと考えるかもしれません。しかし神は私たち一人一人を「良い知らせを伝える者」として、家庭や地域社会、それぞれの人間関係の中に遣わしておられるのです。「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こる」のです。私たちもキリストの言葉(福音)を伝えられ、キリストの恵みと救いの証しを聞くことによって信仰に導かれたのではないでしょうか。
愛と希望の祭典・四国が2026年5月に開催されようとしています。福音を伝えるために最も大切なこと、それは祈りです。神から離れている人たち、救いが必要な人たちのために、具体的に名前を挙げて祈りたいと思います。アンデレが兄ペトロやイエスに会いたいと願ったギリシア人をイエスの許に連れていったように、隣人をイエスの所にお連れしようではないでしょうか。四国の300の教会が「良い知らせを伝える者」として共に労することができますように。
2024年10月27日
説教題 「究極の希望」
聖書箇所 エフェソの信徒への手紙1章15~19節
説 教 安井 光 師
パウロが獄中にあってエフェソの教会の信徒たちのことを心に留めて祈っていました。「私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与えてくださいますように。そして、あなたがたが神を深く知ることができ、心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものが、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きなものかを悟ることができますように」。これは、桑原教会の召天者たちが家族や教会のために祈っていた祈りでもあると思うのです。
人は生まれてから死ぬまでの間に多くの事柄を知り、たくさんの知識を身に着けますが、知ることの初めに主なる神を知ることがあると聖書は告げています(箴言1:7)。この世も人の命も人生も神から始まり、神が導いておられます(創世記1:1)。ところがこの世は神を認めず、各自が思いのままに生きるようになり、神を知らない者となってしまったのです(人間の罪)。憐れみ深い神は、自然界や歴史を通じてご自身を示してこられましたが、御子イエス・キリストをとおしてご自身を明らかにされ、今もこの世に知らせようとしておられるのです。
召天者たちは、イエス・キリストによって真の神を知る者となり、人生が変えられました。神を知るのは一度限りの経験ではありません。生涯をとおして神を知り、日々の生活において深く知るようになるのです。神を知ることは、神が信じる者たちになそうとしておられる事柄を、神のご計画を深く知ることでもあります。明日のことは私たちには分かりません。いつ人生の終わりを迎えるかも分かりません。しかし神は知っておられます。神が私たちに最善のご計画を抱いておられることを私たちは知っています(エレミヤ29:11)。死は終わりではなく、天に場所が用意されており、主と同じ栄光の姿に変えられ、御国に生きることを私たちは知らされています。
信仰の先達である召天者たちは、見えるものではなく目に見えない神に希望を抱き、神から確かな希望を与えられていました。私たちに与えられている希望がいかに素晴らしいものか、私たちが受け継ぐ御国がいかに栄光に輝いたものであるか、また私たち信じる者に働く神の力がいかに大きなものかをいよいよ深く知らせていただきましょう。何にもまして主なる神を深く知ることができますように。与えられている希望を心に抱き、日々歩ませていただきましょう。