過去の礼拝メッセージの音声を配信をしています。
2025年1月19日
説教題 「死で終わるものではない」
聖書箇所 ヨハネによる福音書11章1~16節
説 教 安井 光 師
2025年1月12日
説教題 「神と御子は一つ」
聖書箇所 ヨハネによる福音書10章22~42節
説 教 安井 光 師
冬の季節、エルサレムでは神殿奉献記念祭(ハヌカ)が行われました。イエスが神殿の回廊を歩いておられると、ユダヤ人たちが「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」とイエスに詰め寄ってきました。ユダヤ人たちはイエスを訴える口実を得ようとしていたのです。「私は言ったが、あなたがたは信じない」「あなたがたは…私の羊ではない」とイエスはユダヤ人たちに言われました。ユダヤ人たちは、自分たちが神の許からはぐれた羊だと思っていなかったのです。自分たちは正しい道を歩んでおり迷っていないと思い込み、イエスの声に聞き従おうとしなかったのです(9:40∼41)。
イエスは目の見えない人を見えるようにされたり、五千人の人々に食物を与えたり、多くの神の業を行ってこられました。それでもユダヤ人たちはイエスを神の子メシアと認めず、「イエスを石で打ち殺そうと」しました。「神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」と主張します。しかしイエスと神とは一体でした(30節、1:1∼3、14∼18)。御子イエスは父なる神に全く信頼し服従され、父なる神は御子イエスを信任し全権を委ねておられました(5:19∼20、6:40)。御子と御父との相互の愛と信頼に、「私と父とは一つである」と言われる一体性が明示されているのです。
ユダヤ人たちは高慢で心頑なでしたが、イエスを神の子メシアと信じる者たちがいました。それは弟子たちでした(マタイ16:13∼20)。「私の羊は私の声を聞き分け…私に従う」とイエスは言われます。「私に従ってきなさい」とイエスに呼ばれた時、弟子たちは持っているものを置いて素直に従いました。彼らは自分たちが迷える羊であり、イエスの導きが必要だと悟ったのです。イエスが信じる者に賜わる「永遠の命」は「滅び」ることがない命です(28∼29節、3:16)。良い羊飼いであるイエスの声に聞き従う者は、イエスに守り導かれ、神との永久の交わりを持つことになるのです(詩編23編)。イエスを信じる者たちは神の愛に結ばれているのです(ローマ8:38)。
イエスを信じる者たちもイエスと一つに結び合わされています(ヨハネ15:1∼17)。御子と御父との交わりに招き入れられたのです(Ⅰヨハネ1:3)。この交わりはイエスが「一つである」と言われるほどに強固で親密なのです。神から来る愛と信頼によって結ばれています。私たちはイエスの十字架の贖いにより、イエスを神の子メシアと信じる信仰によって、神の子とされ神を父と呼ぶ者とされているのです。
2025年1月5日
説教題 「ペトロの信仰告白」
聖書箇所 マルコによる福音書8章27~38節
説 教 安井 直子 師
フィリポ・カイサリアは皇帝崇拝の盛んな町であり、牧神パンの神を拝む偶像崇拝の根強い場所でした。
イエスは弟子たちとフィリポ・カイサリア地方に出かけられ大切な質問をされました。「人々は、私のことを何者だと言っているか」(27)と。弟子たちは「洗礼者ヨハネ、エリヤ…預言者の一人だという人もいます」と答えました。しかしそれは、イエスに対する本当の評価・理解ではないのです。
そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」ペトロが「あなたは、メシアです」(29)と答えました。このペトロの信仰告白は、これまでのペトロからは考えられないような答えでした。並行記事のマタイ16:17でイエスはペトロがこのように信仰告白が出来たのは、彼の知識や理解によるものではなく聖霊の働きによるもので、父なる神の御業であると教えられました。
私たちクリスチャンも「イエスは主である」と信仰を告白して救われたのですが、今も主は私たちに対して「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問いかけておられます。私たちはこの主イエスの問いかけにどのようにお答えできるでしょうか。それは①「礼拝の場において」賛美や祈りをささげることを通して「あなたは、メシアです」と信仰告白していくことです。そして②「日常生活の場において」私たちは日々のデボーションや祈りにおいても「あなたは、メシアです」といつもこのように告白します。教会以外の場で自分の信仰を言い表すことは難しいこともあります。迫害を受けるかもしれません。しかしどんな時でも「イエスこそ私の救い主、生ける神」と信じて生きることは主イエスが願われていることです。
イエスはペトロの信仰告白を聞くと、ご自分のことを誰にも言わないようにと弟子たちを戒められました(30)。そしてこれからご自身が苦しみを通り、十字架で殺され、三日後に復活するということを教え始められました「すると、ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた」(32)のです。イエスは振り返ってペトロに「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」(33)と言われました。模範的な信仰告白をしたペトロが、今度は叱られてしまいました。イエスにとってそれはサタンからの誘惑なのです。そして「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(34)と言われました。
私たちはいつでも「あなたは、メシアです」と信仰を告白し、イエスの言葉に聴き従って生きる者でありたいと思います。
2024年12月29日
説教題 「ここが私の父の家」
聖書箇所 ルカによる福音書2章41~52節
説 教 安井 直子 師
ルカによる福音書だけがイエスの幼少期を記しています。イエスの両親であるヨセフとマリヤは、毎年過越の祭にはエルサレムの都に上りました(41)。
両親はいつものように親戚や知人たちと一緒に12歳になったイエスを連れてエルサレムに上りました(42)。祭も終わり両親はイエスが親戚たちと一緒にいるだろうと思い、自分たちだけで一日の道のりを進んでしまったのです。しかしイエスがいないことに気付き、急いでイエスを捜しながらエルサレムに引き返しました。三日目にようやく見つけたイエスは、エルサレムの神殿の境内で、聖書を教える教師たちの真ん中に「座って」話を聞き、質問しているのを見つけました。加藤常昭先生は「この座ってと言う言葉は特別な意味があり、これは教わる者の姿を表す。ここで座っている少年イエスは、真剣に神の言葉を教える者たちから、神の言葉を聞くことに熱中している少年イエスの姿を示している」と解説されています。「聞いている人は皆、イエスの賢さとその受け答えに驚嘆して」(47)いました。両親はその光景に驚きながら安堵しました。母マリヤは「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」(48)とイエスに言いました。するとイエスは「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」(49)と逆に驚いて言いました。でも両親はこの時イエスの言葉の意味を理解できませんでした。イエスが神殿に居たことを「私が自分の父の家にいる」と告げたことによって、決して大人になってから「まことの神」となられた訳ではないということが分かります。ルカ福音書は明確にそのことを記しています。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた」(ヨハネ1:12)のように、私たちにとっても神は「私の父」なのです。私たちもいつも天の父なる神様を意識して生きていくことを心に覚えたいと思います。
この後イエスは両親と共にナザレに帰りヨセフとマリヤの子として過ごし、両親に仕えられました。母マリヤはこれらのことをみな心に留めていました。「イエスは神と人から恵みを受けて、知恵が増し、背丈も伸びていった」(52)のです。
私たちも「神の家」である教会に繋がり、神の言葉を聴き、神に仕え奉仕する者でありたいと思います。そしてイエスのように神様を私の父と呼び、み心にかなった道を歩んで参りましょう。
2024年12月22日
説教題 「救い主を礼拝する」
聖書箇所 マタイによる福音書2章1~12節
説 教 安井 光 師
救い主の降誕はユダヤから千キロ以上離れた「東方の博士たち」にも知らされました。博士たちはバビロニアの占星術学者でした。彼らは星を調べていて、不思議に輝く星を発見し、その星に導かれて「ユダヤ人の王(メシア=救い主)としてお生まれになった方」を「拝みに来た」のです。
博士たちはエルサレムに到着し、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とヘロデ王に尋ねました。祭司長や律法学者たちが調べると、ミカ書5章2節に記されている「ベツレヘム」だと分かりました。ベツレヘムはイスラエル王国のダビデ王が生まれた地でした。その地から「一人の指導者」が現われ「イスラエルの牧者となる」こと、すなわち民を導く救い主が起こることを神が約束しておられたのです。
ヘロデは自分の立場を脅かす存在が現われたことに「不安を抱」きました。「エルサレムの人々も皆、同様」でした。ヘロデは二歳以下の男の子を殺すよう命じますが(16節)、人々は社会が混乱し自分たちの生活が脅かされることを恐れたのです。祭司長や律法学者たちは神が救い主を与えてくださるのを知っていました。ところが無関心でした。博士たちと共にユダヤの新しい王を、救い主を捜しに行く者はおらず、博士たちの他に救い主を礼拝しようとする者はいなかったのです。
博士たちは救い主、幼子イエスに会い、「ひれ伏して…拝み」ました。博士たちは学識のある身分の高い人たちでしたが、自分よりも小さな貧しい家の赤ちゃんの前に額づいて礼拝したのです。「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」のでした。博士たちは、大事なもの、手放しがたいもの、また自分にはどうすることもできないもの、すべてをかなぐり捨てて救い主を礼拝したのです。
「クリスマス」は、Christ(キリスト)とMass(ミサ=礼拝)という二つの語からなります。東方の博士たちが御子イエスに献げた礼拝こそ、クリスマスが何であるかを示しているでしょう。神は私たち罪人を救うために御子を十字架で犠牲としてささげてくださいました。私たちは御子の十字架の贖いに感謝し、神の子とされている恵みを覚えながら、それに相応しく自らを神に献げ、神にすべてを明け渡して礼拝すべきなのです(ロマ12:1)。
博士たちは救い主を礼拝する者として歩み始めます(12節)。私たちは自らをささげ心から救い主イエスを礼拝するとともに、クリスマス礼拝の場から心新たに主の導きを仰ぎ求めつつ歩ませていただきましょう。
2024年12月15日
説教題 「良い羊飼いイエス」
聖書箇所 ヨハネによる福音書10章1~21節
説 教 安井 光 師
羊は一匹ではなく群れをなして行動します。視力が弱く方向音痴で外敵から身を守ることができません。羊は羊飼いに飼われ導かれなければ生きられない動物でした。羊飼いが羊の群れを牧草地や水場へと移動させるのです。夜には「羊の囲い」に入れて群れを休ませます。朝になると、羊飼いは羊たちの名を呼び、羊たちは羊飼いの声に従い、羊飼いが先頭に立って野に出て行くのです。
羊は私たち人間とよく似ています。人間は近視眼的で見えるものや目先の物事にとらわれ、迷いやすく道を逸れやすく思わぬ落とし穴に落ち込むことがあります。聖書は人間を羊に譬えています。人間とは羊飼いである神に導かれて生きるべき羊なのです(詩編23編)。ところが、人間は羊飼いの許からはぐれた羊のように神の許を離れ、各々自分勝手な方向を歩んでいるので行くべくところが分からず迷っているのです(イザヤ53:6)。イエスはそのような世の有様をご覧になり、深く憐れまれたのです(マタイ9:36)。
イエスは「私は羊の門である」と宣言されました。世の指導者たち(王、祭司、偽預言者)は羊を正しく導かず「盗人」や「強盗」のように羊たちを虐げていましたが、イエスに導かれるならば、羊たちは牧草にありつき豊かな命に与ることができるのです(9節)。イエスこそが御国の門であり、永遠の命に至る門であるのです(ヨハネ14:6)。神は迷える羊たちを導く羊飼いとして御子イエスを世に遣わされたのです。イエス・キリストは罪人を救い、神の命に導くまことの羊飼いなのです。
「私は良い羊飼いである」とイエスは言われます。イエスは失われた羊を捜し出して救うために世に来られました(ルカ15:4∼6、19:1∼10)。羊に命(ゾーエー:霊的な命、復活の命、永遠の命)を豊かに得させるために、イエスはご自分の命(プシュケー:肉体の命)を捨てられるのです(10∼11節)。イエスがお与えになる命は、神に結び付く命、神と交わりを持ち、神と共に生きる命です。私たちにこの命を得させるために、イエス・キリストは十字架で死なれ、死者の中から復活されたのです(17∼18節)。
「私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない」とイエスは言われています。私たちはイエス・キリストに導かれ豊かな命に生かしていただくとともに、このクリスマスに一人でも多くの人が良い羊飼いであるイエスに出会うことができるように、救い主イエスに導かれる豊かな人生を歩み出すことができるように祈りましょう。
2024年12月8日
説教題 「四千人の給食」
聖書箇所 マルコによる福音書8章1~10節
説 教 安井 直子 師
「パンの奇蹟」が全四福音書に記されている唯一の奇蹟であることから、この出来事が多くの人々の心に残り広く語り伝えられたのかが分かります。
イエスがデカポリス地方のガリラヤ湖畔で、耳が聞こえず口の利けない人を癒された後、その噂を聞いて再び大勢の群集がイエスの周りに集まっていました。今で言う「野外伝道集会」が三日も続いていました。ここではイエスから「群集がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいるのに、何も食べる物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で動けなくなってしまうだろう。それに遠くから来ている者もいる」(マルコ8:2)と言われました。この「かわいそう」はもともと「はらわた」と言う意味の言葉で腹の一番奥底が動く様を表し、イエスの深い憐れみ・愛を表しています。
イエスは弟子たちがこの状況をどう対処するのかと見ておられたのでしょう。弟子たちは「この人里離れた所で、どこからパンを手に入れて、これだけの人に十分に食べさせることができるでしょうか」(8:4)あっさりあきらめている様子です。弟子たちは敗北主義に捉えられて「ない」と否定語で答えています。ある先生は「イエスのなさり方は、否定から不可能を引き出すのではなくて、その否定から肯定を引き出して、積極に変えるのです」と言われます。イエスは弟子たちの今手にあるものに目を向けさせて、わずかでも「ある」ことに気付くように導いておられるのです。
そこでイエスは群集に地面に座るように命じ、七つのパンを取り、感謝してこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになり、弟子たちが群集に配りました。また、少しの魚も同じようにして配りました。すると、四千人余りの群集は食べて満腹になり、余ったパン切れを集めると七籠になったというのです(8:6∼8)「五千人の給食」同様に、どんな小さなものでもイエスのもとに差し出して委ねるならば、イエスが受け止めて下さり祝福して下さることを教えられます。
この四千人へのパンの奇蹟は五千人へのパンの奇蹟の弟子たちへの追試とも言うべき出来事でした。同じような状況を通して、弟子たちがどう対応しイエスに願い求めることができるか、弟子たちの信仰を試しておられたのではないでしょうか。また五千人の群集はユダヤ人たちでしたが、四千人の群集はデカポリス地方の異邦人たちでした。イエスの愛・救いは全ての人に与えられる神の恵みであることを弟子たちに、私たちに教えておられます。イエスの御心に従う者となりたいと思います。
2024年12月1日
説教題 「エッサイの根株より」
聖書箇所 イザヤ書11章1~9節
説 教 安井 光 師
ダビデによって統一された王国は、北イスラエルと南ユダとに分裂し、高慢になり、主を畏れず、主に信頼せず、主との愛の関係を捨て去り、偶像礼拝に走り、悔い改めの勧告に聞き従わなかったため、主に裁かれ、アッシリアやバビロンによって滅びてしまいます。そのような時代背景にあって、イザヤのメシア預言がなされました。イスラエルとユダは切り倒された木の根株のようになるのです。しかしその根株から「一つの芽が萌え出で」「若枝が育つ」のです。この一つの新芽、若枝こそ、イエス・キリストでした。
イエス・キリストはダビデの家系から誕生されました(マタイ1:1∼、ルカ2:4他)。なぜイザヤは、ダビデではなくその父「エッサイの株から…」と預言したのでしょうか。エッサイは王家の人ではなく羊飼いでした。ダビデも元羊飼いでしたが、ダビデは偉大な王というイメージをイスラエルの民は持っていたことでしょう。民が求めたのはダビデのような戦いに長けた王様であり、ダビデ王朝のように栄えた国の復興を彼らは待ち望んでいました。しかし主はそのような人の思いの延長線上に救い主を起こそうとなさいませんでした。人の思いと罪とを断ち切り、御心を行われるのです。ただ全く別のところから救い主を起こされるのでなく、エッサイの根株であるダビデの家系から起こされたのです。
エッサイの根株より起こされる救い主には「主の霊がとどまる」と言われます。それは「知恵と分別の霊」「思慮と勇気の霊」「主を知り、畏れる霊」です。イエス・キリストがこれらの霊的資質を備えておられたことを、私たちは四福音書から確認することができます。イエスが公生涯を開始された時、「主の霊」がイエスの上に降り留まりました(マルコ1:10、ヨハネ1:32他)。イエスは御霊に満たされ、御霊に導かれて救い主の働きを行われます(ルカ4:1∼2、14、ヨハネ8:1∼11他)。イザヤの預言はイエス・キリストによって実現したのです(ルカ4:16∼21)。イエスは「主を畏れることを喜び」、神の御心に従われ(マタイ16:21∼、26:36∼56)、世の救いの業を成し遂げられたのです。
イザヤは救い主がもたらす御国の平和を預言しています(6∼9節)。それは神の支配なさる新しい世界です。イエス・キリストによって神の平和が実現するのです。イエス・キリストを信じる者たちの心に神の平和は既に与えられていますが、イエスが再び世に来られる日に完成し完全なものとなります。私たちはイエス・キリストを待ち望みつつ、アドベントを過ごしてまいりましょう。
2024年11月24日
説教題 「契約の書と契約の血」
聖書箇所 出エジプト記24章1~11節
説 教 安井 光 師
神はイスラエルの民と契約を結ばれました。契約が締結されるにあたり、「契約の書」が読まれ、「契約の血」が注がれました(7∼8節)。
「契約の書」とは、十戒とその後に続く内容です(20:1∼23:33)。神とイスラエルの民が結んだ契約には双方が果たすべき約束事が明示されていました。すなわち、神がイスラエルを神の民として祝福すること、イスラエルの民が神の御言葉に従うということでした。神から授かった契約の書をモーセが読み上げると、イスラエルの民は「主が語られたことをすべて行い、聞き従います」と誓約しました。契約の書は神の手で石の板に記され、律法としてイスラエルの民に与えられるのです(12節)。
私たちにとっての契約の書は旧新約聖書です。聖書は、神がイエス・キリストにより全人類と救いの約束を結ばれた契約の書です。この書には神が私たちを救い、永遠に至る祝福を与えるという約束が明示されています(Ⅱテモテ3:15∼ 17)。私たちには神がこの世に救い主として遣わされた御子イエスを信じること、御言葉に基づいて神を信頼しつつ生活することが求められるのです。ただ御言葉を守り行うためには、愛(御子イエスが十字架で示された神の愛)が必要不可欠です。
神とイスラエルの民との契約が締結されるにあたり、動物のいけにえがささげられました(5節)。いけにえが屠られ、その血が流されました。モーセはその半分を祭壇に注ぎ、もう半分をイスラエルの民に打ちかけて、「これは、主がこのすべての言葉に基づいてあなたがたと結ばれる契約の血である」と宣言しました。いけにえの血が契約の証であり、契約を保証するものとなりました。いけにえの血は、イスラエルの罪を贖うためのものだったのです。
私たちにとっての契約の血は、イエス・キリストが十字架で流された血です。神は御子イエスの血をもって私たちと新しい契約を結ばれたのです(マタイ26:26∼28、ルカ22:20)。イエスは動物のいけにえには成し得なかった完全な贖いをなされ、信じる者たちに永遠に至る祝福の保証となられたのです(ヘブライ9:11∼15)。私たちはイエスが十字架で流された契約の血によって、真心から生ける真の神に仕える者とされるのです(Ⅰペトロ1:18)。
神はこの契約のゆえに真実を貫かれます。私たちもこの契約に誠実であらせていただきたく思います。契約に示された神の愛と恵みに信仰をもって応答し、神を愛し御言葉に聴き従いつつ歩ませていただきましょう。
2024年11月17日
説教題 「わたしはアルファでありオメガである」
聖書箇所 ヨハネの黙示録22章12~13節
説 教 原田 憲夫 師
私たちは、普段は一日の初めと終わりしか意識しないのに、特別に「初めと終わり」を意識する日があります。実際の暦の上ではたった一日の違いなのに、その日が私たちの人生を大きく分ける日とさえなるのです。
私(原田憲夫師)には2016年夏に病に倒れた長女との地上での別れの日−永遠の国への旅立ちの日がそうでした。その日は全く突然やって来ました。だれの人生にも「初めと終わり」がある・・・何度も口にしてきた「その日」がこんな形で・・・。
「アルファであり、オメガである」。「アルファ」とはギリシア語のアルファベット最初の文字であり、「オメガ」は最後の文字です。「初めであり、終わりである」と語るお方は、過去・現在・未来において−時間・空間における無限の、永遠の存在者だと語っているのです。この無限の、永遠の存在者であるお方が、「初めと終わり」を避けることができない、永遠とは相容れない私たち−あなたや私−のところへ「報いを携えて来る」というのです。
「わたしはすぐに来る・・・報いを携えて」。この「報いを携えて来る」お方こそ、救い主イエス・キリストです。キリストは私たちを「永遠の国」へ招くために再び「来る」(キリストの再臨)というのです。
私たちが永遠と相容れない原因は、私たち人間が自らの創造者であるお方−神様に逆らった「堕罪」にあります。けれども、神様はご自分に背を向けた私たち人間を決して見放しはしませんでした。それどころか、神様はずっとそんな人間を深く慈しんでいたのです。
キリストを信じて「永遠のいのち」を。この神様の慈しみの心は、時が満ち、救い主キリストを通して現実となりました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ 3:16)。
救い主キリストは私たちの人生の「初めから終わりまで」すべて背負いました。「永遠(いのち)」を失う原因となった私たち人間の罪・過ちをすべて十字架の上まで運び、そこでご自分のいのちと引き換えに完全にそれを贖われたのです。そして三日目に復活し、ご自分を信じる人すべてに「永遠のいのち」を与えてくださるのです。
初めに触れた長女は詩篇23篇6節「主の家に住むこと」が彼女の希望でした。今、彼女はそこで永遠の安息を得ています。あなたも「わたしはアルファであり、オメガである」と語るキリストの心の中へ飛び込んでください! そして、今までの「人生を分ける日−永遠(いのち)−」を手にしてください!
2024年11月10日
説教題 「波の上の主」
聖書箇所 ヨハネによる福音書6章16~21節
説 教 安井 直子 師
イエスの「パンの奇跡」によってお腹が満たされた人々は、イエスを自分たちの王様にしたいと考えるようになりました。しかしイエスは人々を解散させて、弟子たちを舟に乗せて向こう岸に漕ぎださせてから、一人で山へ登られました。日も落ちて辺りは暗くなってきました。急に強い風が吹いてきて湖は荒れだしました。元漁師の弟子たちでさえも、いくら漕いでも舟は前に進みません。彼らはくたくたに疲れてしまいました。
すると向こうからイエスが、なんと湖の上を歩いて近づいて来られました。でも弟子たちにはそれがイエスだと分かりません。幽霊だと思い、恐ろしさのあまりガタガタ震えました。するとイエスは弟子たちに「私だ、恐れることはない」と言われました。力強いお声が嵐の中に響きました。「イエス様!」弟子たちは声をあげ喜んでイエスを舟にお迎えしました。イエスが舟に乗り込むと風がピタリと止み、すぐに向こう岸に着いたのです。
私たちにも弟子たちのように、突然大変なことや苦しいことが起こって、不安になったり悲しくなったりすることがあります。それは大人も子どもも区別なく、自分の力ではどうすることもできない事が起こってきます。
そして弟子たちはイエスに助けを求めるということを忘れてしまっていました。でもこの時のイエスは、離れた所にいた弟子たちが苦しんでいるのを知ってご自分から近づいて来て下さいました。そして力強く声をかけて下さったのです。
今も生きておられるイエスは、私たちが大変な時や苦しい時、私たちの信じる心が小さくなっていても、その小さな信仰の小舟に一緒に乗り込んで下さり「私だ、恐れることはない」と声をかけて下さいます。そして心の不安や恐れを取り除き、問題を解決へと導いて下さるお方です。イエスが舟に乗った時に嵐がやんだように、私たちが心の中にイエスをお迎えするなら心の嵐がおさまり、最善の道に導いて下さいます。
私たちはこのイエスを信じてお従いしていきましょう。どんなに不安な事があってもまずイエスに祈り求めて、お頼りしていきましょう。イエスは私たちの日々の歩みを支え守って下さり、私たちの最終目的地である天国まで導いて下さいます。私たちを恐れさせる問題に目を奪われるのではなく、イエスを仰ぎ見つつ、日々歩ませていただきましょう。
2024年11月3日
説教題 「良い知らせを伝える者」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙10章9~17節
説 教 安井 光 師
神はイエス・キリストによる救いにすべての人を招いておられます。救われるために必要なのは、「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」ことです。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」のです。この救いについては、人種も民族もいっさい区別がありません(12節)。この「良き知らせ(福音)」が一人一人の喜びとなるには、この知らせが伝えられまた聞かれなくてはなりません。
福音宣教が開始されて二千年が経ちました。日本においても宣教が行われ、迫害や弾圧を受けながらも、現在に至るまで福音が宣べ伝えられてきました。しかし尚多くの人々の心の思いは、「信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう」というものではないでしょうか。
「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」と、使徒パウロは福音を伝えることの素晴らしさを語っています。この言葉は元々イスラエルの民がバビロン捕囚から解放される知らせを告げる者を示しましたが(イザヤ52:7)、パウロはイエスの福音を伝える者を指して使っています。パウロ自身、「良い知らせを伝える者」でしたが、彼だけでなく先にイエスに救われた者たち、私たちクリスチャン一人一人が福音を伝える者となることをパウロは言っているのです。
「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができるでしょう」と、私たちは反論し弁明したくなります。牧師や宣教師、あるいは特別な賜物が与えられた信徒でなければ伝道できないと考えるかもしれません。しかし神は私たち一人一人を「良い知らせを伝える者」として、家庭や地域社会、それぞれの人間関係の中に遣わしておられるのです。「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こる」のです。私たちもキリストの言葉(福音)を伝えられ、キリストの恵みと救いの証しを聞くことによって信仰に導かれたのではないでしょうか。
愛と希望の祭典・四国が2026年5月に開催されようとしています。福音を伝えるために最も大切なこと、それは祈りです。神から離れている人たち、救いが必要な人たちのために、具体的に名前を挙げて祈りたいと思います。アンデレが兄ペトロやイエスに会いたいと願ったギリシア人をイエスの許に連れていったように、隣人をイエスの所にお連れしようではないでしょうか。四国の300の教会が「良い知らせを伝える者」として共に労することができますように。
2024年10月27日
説教題 「究極の希望」
聖書箇所 エフェソの信徒への手紙1章15~19節
説 教 安井 光 師
パウロが獄中にあってエフェソの教会の信徒たちのことを心に留めて祈っていました。「私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与えてくださいますように。そして、あなたがたが神を深く知ることができ、心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものが、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きなものかを悟ることができますように」。これは、桑原教会の召天者たちが家族や教会のために祈っていた祈りでもあると思うのです。
人は生まれてから死ぬまでの間に多くの事柄を知り、たくさんの知識を身に着けますが、知ることの初めに主なる神を知ることがあると聖書は告げています(箴言1:7)。この世も人の命も人生も神から始まり、神が導いておられます(創世記1:1)。ところがこの世は神を認めず、各自が思いのままに生きるようになり、神を知らない者となってしまったのです(人間の罪)。憐れみ深い神は、自然界や歴史を通じてご自身を示してこられましたが、御子イエス・キリストをとおしてご自身を明らかにされ、今もこの世に知らせようとしておられるのです。
召天者たちは、イエス・キリストによって真の神を知る者となり、人生が変えられました。神を知るのは一度限りの経験ではありません。生涯をとおして神を知り、日々の生活において深く知るようになるのです。神を知ることは、神が信じる者たちになそうとしておられる事柄を、神のご計画を深く知ることでもあります。明日のことは私たちには分かりません。いつ人生の終わりを迎えるかも分かりません。しかし神は知っておられます。神が私たちに最善のご計画を抱いておられることを私たちは知っています(エレミヤ29:11)。死は終わりではなく、天に場所が用意されており、主と同じ栄光の姿に変えられ、御国に生きることを私たちは知らされています。
信仰の先達である召天者たちは、見えるものではなく目に見えない神に希望を抱き、神から確かな希望を与えられていました。私たちに与えられている希望がいかに素晴らしいものか、私たちが受け継ぐ御国がいかに栄光に輝いたものであるか、また私たち信じる者に働く神の力がいかに大きなものかをいよいよ深く知らせていただきましょう。何にもまして主なる神を深く知ることができますように。与えられている希望を心に抱き、日々歩ませていただきましょう。
2024年10月20日
説教題 「ファリサイ人の罪」
聖書箇所 ヨハネによる福音書9章13~41節
説 教 安井 光 師
生まれつき目が見えなかった人がイエスによって見えるようになりました(1∼12節)。これはとても素晴らしいことであり喜ばしいことでした。ところが周囲の人々の反応は冷ややかでした。同胞になされた神の業(救い)を喜んでいないばかりか、彼を犯罪人のように扱い厳しく尋問したのです(13節~)。
ファリサイ人は「どうして見えるようになったのか」と彼に尋ねました。彼はイエスが自分にしてくれたことを伝えました。ファリサイ人はイエスが安息日に彼の目を癒したので、彼になされた神の業を信じようとしません(16、18節)。ファリサイ人は彼の両親まで呼び出し、どうして息子が見えるようになったかを問い質します(19節~)。もしイエスをメシアだと言おうものなら、会堂から追放すると決めていました。両親がはっきり答えないので、ファリサイ人は見えなかった人を再度呼び出して尋問します(24節~)。神はこのやりとりをどのように見ておられたことでしょう? ファリサイ人は彼のことを隣人とは思わず、罪人と見下して無関係を装っていたのです(34節)。
なぜファリサイ人は目が見えるようになった人の話を聴かず、イエスを救い主と認めようとしないのでしょうか。自分は目が見えない人間ではないと思い、罪人ではないと思っていたからです。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」とイエスは言われます。ファリサイ人は「見える」と思い込んでいるだけで、実は見えていなかったのです。罪人であることを認めず、救い主イエスを信じようとしないことがファリサイ人の罪でした。御子イエスによらなければ、神を見ることができず、御心を知ることはできないのです。
見えなかった人はイエスに手引きを求めました。イエスの御言葉に聴き従いました。そして見えるようになりました(7節)。彼はイエスを救い主と信じて霊の目も開かれたのです(35~39節)。見えていないのに「見える」と言い張ることに人間の罪があります(41節)。この罪が神を見えなくし人生を迷わせます。ただ救い主イエスだけが見えるようにしてくださり、人生の道を導いてくださいます。イエスを信じて神の子・神の民のされた者たちは、常にイエスの導きを仰ぎ求めなくてはなりません。高慢になり隣人を蔑むことがないよう、救われたのはただ神の恵みでありイエス・キリストの贖いの業によることを心に刻みましょう。またイエスによって一人の人が救われることを喜びとしましょう。
2024年10月13日
説教題 「エッファタ(開け)」
聖書箇所 マルコによる福音書7章31~37節
説 教 安井 直子 師
録音ミスのため、メッセージ音声の掲載はいたしません。
イエスはガリラヤ湖の南東部にある異邦人の町・デカポリスに来られました。ここは以前、悪霊に取りつかれたゲラサ人の男がイエスによって癒された所です。そして彼の証しが広くデカポリス地方に広がっていました。イエスならどんな病でも癒やして下さると信じて、人々は耳が聞こえず口の利けない人をイエスのもとに連れて来て「手を置いてくださるように」と願いました。私たちがイエスのもとに来るようになったのも、誰かの導きがあったことでしょう。私たちもそうされたように、次は誰かをイエスの御許にお連れするのです。クリスチャンにとってとても重要な働きです。
イエスは人々の願いを受けて、まず彼一人を連れ出されました。次に両耳に指を差し入れ、御自分の唾を付けて彼の舌を潤されました(33節)。癒しが必要な部分に直接触れられたのです。そして天を仰いで深くため息をつき神に祈られたのです。イエスのため息は「うめき」であり、彼を憐れみ「うめきの祈り」をささげて下さったのです。今もイエスは私と向き合うために、時に私たちの孤独や病を通して個人的に関わって下さり、御言葉を語り苦しみや孤独から救って下さいます。
それからイエスは「エッファタ」と叫ばれました。これはアラム語で「開けよ」と言う意味です。すると、彼の耳は開け、舌のもつれは解かれてはっきりと話せるようになったのです。彼はこれまで、孤独で暗く閉ざされた世界にいましたが、イエスによって耳と口だけではなく心も開かれ癒やされました。今もイエスを救い主と信じる私たちには聖霊が働いて、私たちの心のもつれ罪の縄目を解いて下さり、まことの救い・自由と平安を受けることができるのです。あなたはこの経験をお持ちですか。
このいやしの奇跡を目の当たりにしたデカポリスの人々は驚嘆しました。そしてイエスが誰にも言ってはならないと口止めをすればするほど、ますます言い広めるのでした(36節)。そしてデカポリスの人々は『この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる』(37節)とイエスに対する賞賛の言葉を惜しみませんでした。
イエスは私たちが抱える問題にも慈しみをもって触れ「開けよ」と語られるのです。私たちの心が開かれるように語られた「エッファタ(開け)」なのです。さらにイエスが救おうと願っている人々(家族・友達等)をイエスのもとにお連れするために私を用いて下さいと祈っていきましょう。
2024年10月6日
説教題 「神の業が現れるために」
聖書箇所 ヨハネによる福音書9章1~12節
説 教 安井 光 師
イエスと弟子たちが道を歩いていると、生まれつき目の見えない人が道端で物乞いをしていました。弟子たちは「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」とイエスに尋ねました。何とヒドイことを言うのかと思いますが、当時は病気や障害などが本人や先祖の罪の報いであると考えられていたのです。
今日においても、因果応報的なモノの考え方tが人々の心を支配しています。何か問題が起こると、問題解明や原因追及がなされます。「自分がこうなったのは誰々のせいだ」とか「あの人がああなったのはこうだからだ」などと、他人や自分を責め、後ろ向きの気持ちになり、問題解決に至らないばかりか、かえって悩みや苦しみを募らせてしまうことが往々にしてあります。原因を詮索し、仮に原因を突き止めたとしても、「あの時こうしたのが間違いだった」とか「こうすべきだった」という後悔や恨みが残るのみです。世の中には、因果応報の論理では解決しない人間の苦悩があります(義人ヨブの例)。
弟子たちがイエスになした問いは、ただ過去に向かう後ろ向きのものでした。イエスは彼らの見方、問いの方向を変えられます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とイエスは言われました。イエスは人々の目を神に向けられ、将来に向けられるのです。人には不幸や災いと思えることを神はどう見ておられ、何をなそうとしておられるのかという前に向かう見方、前に向かう問いへ方向転換させるのです。目が見えない「原因」ではなく「目的」を示されるのです。イエスは人が不幸や災難に遭い、その只中で悩み苦しむ時に、「神の御業があなたになされるのだ、私がそれを行うのだ」と語りかけられる救い主なのです。
目が見えなかった人は、イエスが言われたとおりシロアムの池に行って目を洗いました。すると見えるようになりました(6∼7節)。神の業が彼になされたのです。「神の業」とは、イエスによって肉の目のみならず心の目を開かれ、神に導かれながら新しく人生を歩み始めることを示しています。過去を感謝し、現在を喜び、将来に希望を抱いて生きるようにされること、それが「神の業」です。主なる神は私たち一人一人にご計画を持っておられ、素晴らしい御業をなされます。私たちはそう信じるので、主にすべてをお任せすることができ、主に期待しつつ平安のうちに生きることができます。
2024年9月29日
説教題 「熱心と謙遜をもって」
聖書箇所 マルコによる福音書7章24~30節
説 教 安井 直子 師
イエスは、偽善的なパリサイ人や律法学者たちから離れてティルスへ行かれました。その地にもイエスの名は知れ渡っていて、汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つシリア・フェニキア生まれの女性がイエスの足もとにひれ伏して「娘から悪霊を追い出してください」と言って必死に懇願しました。ところが、イエスの言葉はこれまでになく冷たいもので『まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない』(7:27)というものでした。ここでイエスは、神の国の福音が宣べ伝えられる様子を子どもたち(イスラエル人)と小犬(異邦人)がパン(神の言葉・福音)を受ける順番にたとえて言われました。イエスには深い御心があったのでしょうが、聞く側は何か冷たい感じを受けます。
しかし女性はイエスの言葉にも失望しないで『主よ、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます』(7:28)と答えしました。イエスが与えて下さる恵みは子どもたちが落としたパン屑でさえも、あふれるばかりの豊かな恵みがあると告白しています。必死に娘の癒しを求め、娘の問題を自分の問題として、イエスに助けを求める愛と熱心さがありました。イエスも彼女の信仰を受け入れて下さいます。信仰の熱心さとは、人間が評価するものではなく、神ご自身がどう見て下さるかが重要なのです。
フェニキアの女性の姿から見習いたいことは「イエスの足元にひれ伏した」と言うことです。これこそが礼拝者の姿です。またイエスに向かって「主よ」と呼びかけていることです。礼拝とはイエスを救い主と信じる者たちが「主よ」と崇め賛美し、イエスに栄光をお返しすることです。口語訳聖書には『主よ、お言葉どおりです』とあります。女性はイエスの御前にへりくだってその言葉を受け入れました。異邦人である自分の立場やイエスの御心も、謙遜な心で受け入れた上で、なおひたすら神の恵みと憐れみを願い求めました。たとえパン屑であっても、主の恵み・祝福には変わりない、溢れるばかりの主の恵みと力に期待をしたのです。
そこでイエスは『その言葉で十分である。行きなさい。悪霊はあなたの娘から出て行った』(7:29)と言って女性の熱心で謙遜な信仰を喜び、娘を癒して下さいました。この女性も救われ感謝に溢れたことでしょう。私たちもイエスの御前に自分のありのままを謙虚に受け止めて、神に対する信仰の熱心と謙虚をもって大胆に願い求める者になりましょう。
2024年9月22日
説教題 「人を愛せよとの戒め」
聖書箇所 出エジプト記20章1~17節
説 教 安井 光 師
十戒の後半の5~10の戒めは、人との関係における戒めです。神との関係における戒め(1~4の戒め)のみならず、人との関係における戒めがあるのは、神の救いと祝福はこの社会、また人間関係の中に具体的に現れるからです。神は、神の民イスラエルが神との正しい関係に生きるとともに正しい人間関係に生きることを願われたのです。
第5戒は「あなたの父と母を敬え」です。親は、神が私たちを生まれ育てるために立てられた神の代理人です。だから、親に敬わなければならないのです。第6戒は「殺してはならない」です。人は皆、神のかたちに似せて造られたのですから、自分も含め、どんな人であろうとも命を奪ってはなりません。神は一人一人の命を尊んでおられるのです。第7戒は「姦淫してはならない」です。神は結婚を大切な制度として定められました。性関係は夫婦において許された神の祝福ですが、そうでない場合は神が定めた基本的な人間関係に破壊ともたらします。第8戒は「盗んではならない」です。他者の所有物を奪うことは、神が他者に与えた権利を侵すものです。また不正な所有は、本来神の所有であるものを人間が私物化してしまう行為です。第9戒は「偽りの証言をしてはならない」です。偽証が行われると公正な裁判が損なわれ、社会は崩壊します。日常生活においても嘘や偽りではなく、真実な言葉を語らなければなりません。第10戒は「隣人の家を欲してはならない」です。貪欲はすべての罪の根源です。隣人と比較して羨んだりするのでなく、神が与えてくださるもので満足しなければなりません。
これらの戒めを私たちは守らなければなりません。けれども愛がなければ実行できません。人を愛する愛は神から与えられます(Ⅰヨハネ4:7∼)。神が私たちを愛されて、御子イエスを私たちの罪のために十字架で犠牲にしてくださったことによって、私たちは真の愛を知ることができます。また自分に愛がないことを悟ります。神の愛の故に人を愛そうとしていく時、神が完全な愛で私たちの愛の不足を補ってくださるのです。
イエスは新しい戒めとして、「私があなたがたを愛したように」愛しなさいと命じておられます(ヨハネ13:34)。イエスは父なる神を愛され、私たちを愛してくださいました。私たちに先立って愛の戒めを全うしてくださいました。十戒は石の板に刻まれましたが、神は私たちの心に愛の戒めを刻んでおられます。主の愛のうちに生きるようにしていただきましょう。
2024年9月15日
説教題 「御言葉は自由をもたらす」
聖書箇所 ヨハネによる福音書8章31~47節
説 教 安井 光 師
「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である」とイエスは言われます。イエスはご自分を信じた者たちに対し(30∼31節)、ご自分が語った御言葉を心に受け入れることを求められました。多くの弟子たちが永遠の命の言葉を受け入れず、イエスの許から離れ去ったからでした(6:60∼66)。一度聞いて分からなかったとしても、その時受け入れられなかったとしても、すぐに退けてしまうのではなく、御言葉にとどまり御言葉を心にとどめることが、イエスを信じた者たちに求められたのです。
イエスにとどまり、御言葉にとどまることによって、真理を悟ることができます。「真理はあなたがたを自由にする」とイエスは言われます。御言葉にとどまり、イエスご自身にとどまるなら、その人は必ず真理に至るのです(ヨハネ14:6)。聖書の御言葉をとおして、目が開かれ心に光が照らされる。御言葉をとおして、神の恵みの大きさ、神の愛の深さを知らされる。御言葉にとどまることによって、イエス・キリストの十字架の死と復活に救いがあると悟らされる。そのような霊的経験を大事にしましょう。そこに本当の自由があります。
ユダヤ人たちは、自分たちが罪の奴隷であり、罪からの解放と自由が必要であることを悟ることができませんでした。それは彼らが御言葉にとどまらず、御言葉を受け入れないからでした(37、43、47節)。自分たちは自由だと思い込んでいたのです。それは偽りの自由であり、神を抜きにした自由でした。ユダヤ人だけではないでしょう。人類は創造主なる神の許を離れ、神に背を向けながら自由を追い求めているのです(ルカ15:11∼)。神に対して罪を犯していること、悪魔の奴隷状態にあることを認めなくてはならないのです(34、44節)。
ユダヤ人たちは、自分たちがアブラハムの子孫であることに固執していました(33、39節)。アブラハムは御言葉に聴き従った人でした(創世記12:4、15:6、22:3)。アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をすべきなのです。使徒パウロは、キリストにとどまる者こそアブラハムの子孫であり、罪の奴隷から解放された神の子どもであり、まことの自由を得ていると語っています(ガラテヤ3:29∼4:7、5:1)。私たちはイエス・キリストの十字架と復活の御業にとどまり、御言葉にとどまりましょう。神によるまことの自由をもたらすために、主イエスは神の子どもらの心に、弟子たちの心に御言葉がとどまり根をおろすことを願いながら御言葉を語られるのです。
2024年9月8日
説教題 「大祭司に任命されたキリスト」
聖書箇所 ヘブライ人への手紙5章1~10節
説 教 安井 光 師
大祭司はヘブライ人=ユダヤ人にとって大変重要な役割を担う者でした。大祭司は神に召されてその職務に就きました(4節)。大祭司はみな人間の中から選ばれました(1節)。大祭司は人間社会にあって、人々を神に執り成す者として神に立てられていたのです。
人間は弱さを持つ存在です。詩編8編6節に、神は人間をご自分より僅かに劣る者として造られたとありますが、それは人間の持つ「弱さ」を示しています。弱さは全能なる神が働かれるところです(Ⅱコリント12:9)。大祭司も弱さを身に帯びているので、無知な迷っている人々を思いやり、神に執り成すことができたのです(2-3節)。殊に、「罪のための供え物やいけにえを献げ」、人々の罪を贖う務めは、大祭司にのみ許された働きでした。
大祭司は仲保者としての役割を果たしました。仲保者として神と人間との間に立ち、こじれてしまった両者の関係を修復するのです。もっとも、関係をこじらせてしまった原因は人間の側にあります。人は自ら神の許を離れ、神に背を向け、神に敵対したのです。それが聖書の告げる罪であります。神は罪人である私たち人間と和解するために、仲保者として大祭司を立てられたのです。
私たちは罪深い者です。そのままでは聖く正しい神の前に立つことはできません。人間の中から神によって召され、罪のために犠牲の血を携えて神の御前に立つ仲保者によってのみ、私たちは神に受けられることができます。この仲保者、大祭司は罪のない神の御子イエス・キリストであります。キリストこそ、神が私たち全人類のためにお立てになった完全な大祭司なのです(5-6節)。
キリストは、神の姿で突如この世に現れたのでなく、人の子としてこの世に生まれ、人として生活されました。人間の祈りを聞かれる全能の神であられたのに、祈られなくてはやっていけない有限な人間に、弱さを身に負う人間となられたのです。ゲッセマネの祈りには、キリストの弱さが露わにされています(ルカ22:44、マタイ26:38-39)。キリストは「自分を死から救うことのできる方(神)」に、人間を代表するようにして弱さを示されたのです。
イエス・キリストは、神と私たちとの間に立たれるまことの大祭司です(9-10節)。私たちの「永遠の救いの源」となられたこの大祭司に、私たちは信頼を寄せようではないでしょうか。この大祭司が父なる神に示された「深い信仰」にならい、全き信頼と従順をキリストに抱きつつ歩みましょう。
2024年9月1日
説教題 「世の光であるイエス」
聖書箇所 ヨハネによる福音書8章12~20節
説 教 安井 光 師
仮庵祭には神殿に四本の金の燭台が築かれ灯がともされました。その光は荒野を旅した旧約の民を導いた「火の柱」(出エジプト13:21)を象徴するものでした。祭りの最中は人々の心も明るく燃えていますが、祭りが終わると光を失います。彼らには生活全体を照らす光が、人生の旅路を導く光が必要でした。人々は光を持たず「闇の中」に置かれていました。それは神の御心を知らず、神から離れ、神を見失っていたからでした(マタイ4:15∼16)。イエスはそのような罪人の世のありさまを心に留めながら、「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」と宣言されたのでした。イエスこそが闇の中に輝く光、闇の世を照らすまことの光であられたのです(ヨハネ1:5、9)。
ファリサイ派の人々は、「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と反論し、イエスの言葉を退けました。律法によれば、二人の証しでなければ認められませんでした(17節、申命記19:15)。イエスは神の御子なのでご自身の証しだけで十分だったのですが、もし不十分だというなら「父(神)が私について証しをしてくださる」と言われました。神は御子を諸国民の光とし地の果てまで救いをもたらすことを、預言者を通じて約束しておられたのです(イザヤ49:6)。「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」と、神は御子イエスに聞き従うことを求められたのです(マタイ3:17、17:5)。
イエスの宣言をどう聞くか、どう受け取るかが大事です。「私に従う者は」とイエスは言われます。イエスの言葉を信じ、聖書に証しされている神の約束を信じてイエスに従うならば、その人は「闇の中を歩まず、命の光を持つ」のです。イエスが光となって私たちの生活を照らし、私たちの人生の道程を照らされるのです。イエスは十字架の贖いと死からの復活によって、私たちの心から罪と死と悪魔の闇を取り除き、光で覆われるのです。人生に迷うことがあっても、御言葉が命の光となり私たちの心を照らすので平安に生きることができるのです(詩編119:105)。
かつてはファリサイ派で主イエスに反対していたパウロも、主の光が当てられて闇から光に移されるに至りました(使徒26:12∼18)。パウロの如く主に従う者たちも、世の光とされ光の子とされています(マタイ5:14、エフェソ5:8)。私たちは主に聴き従い、光の中を歩み続けましょう。主の光に照らされ、命の光に生かされ、主の光を輝かせましょう。