過去の礼拝メッセージの音声を配信をしています。

2024年10月4日
説教題 「神の業が現れるために」
聖書箇所 ヨハネによる福音書9章1~12節
説  教 安井 光 師


説教題 「熱心と謙遜をもって」
聖書箇所 マルコによる福音書7章24~30節
説  教 安井 直子 師

 イエスは、偽善的なパリサイ人や律法学者たちから離れてティルスへ行かれました。その地にもイエスの名は知れ渡っていて、汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つシリア・フェニキア生まれの女性がイエスの足もとにひれ伏して「娘から悪霊を追い出してください」と言って必死に懇願しました。ところが、イエスの言葉はこれまでになく冷たいもので『まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない』(7:27)というものでした。ここでイエスは、神の国の福音が宣べ伝えられる様子を子どもたち(イスラエル人)と小犬(異邦人)がパン(神の言葉・福音)を受ける順番にたとえて言われました。イエスには深い御心があったのでしょうが、聞く側は何か冷たい感じを受けます。

 しかし女性はイエスの言葉にも失望しないで『主よ、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます』(7:28)と答えしました。イエスが与えて下さる恵みは子どもたちが落としたパン屑でさえも、あふれるばかりの豊かな恵みがあると告白しています。必死に娘の癒しを求め、娘の問題を自分の問題として、イエスに助けを求める愛と熱心さがありました。イエスも彼女の信仰を受け入れて下さいます。信仰の熱心さとは、人間が評価するものではなく、神ご自身がどう見て下さるかが重要なのです。

 フェニキアの女性の姿から見習いたいことは「イエスの足元にひれ伏した」と言うことです。これこそが礼拝者の姿です。またイエスに向かって「主よ」と呼びかけていることです。礼拝とはイエスを救い主と信じる者たちが「主よ」と崇め賛美し、イエスに栄光をお返しすることです。口語訳聖書には『主よ、お言葉どおりです』とあります。女性はイエスの御前にへりくだってその言葉を受け入れました。異邦人である自分の立場やイエスの御心も、謙遜な心で受け入れた上で、なおひたすら神の恵みと憐れみを願い求めました。たとえパン屑であっても、主の恵み・祝福には変わりない、溢れるばかりの主の恵みと力に期待をしたのです。

 そこでイエスは『その言葉で十分である。行きなさい。悪霊はあなたの娘から出て行った』(7:29)と言って女性の熱心で謙遜な信仰を喜び、娘を癒して下さいました。この女性も救われ感謝に溢れたことでしょう。私たちもイエスの御前に自分のありのままを謙虚に受け止めて、神に対する信仰の熱心と謙虚をもって大胆に願い求める者になりましょう。

2024年9月22日
説教題 「人を愛せよとの戒め」
聖書箇所 出エジプト記20章1~17節
説  教 安井 光 師

 十戒の後半の5~10の戒めは、人との関係における戒めです。神との関係における戒め(1~4の戒め)のみならず、人との関係における戒めがあるのは、神の救いと祝福はこの社会、また人間関係の中に具体的に現れるからです。神は、神の民イスラエルが神との正しい関係に生きるとともに正しい人間関係に生きることを願われたのです。

 第5戒は「あなたの父と母を敬え」です。親は、神が私たちを生まれ育てるために立てられた神の代理人です。だから、親に敬わなければならないのです。第6戒は「殺してはならない」です。人は皆、神のかたちに似せて造られたのですから、自分も含め、どんな人であろうとも命を奪ってはなりません。神は一人一人の命を尊んでおられるのです。第7戒は「姦淫してはならない」です。神は結婚を大切な制度として定められました。性関係は夫婦において許された神の祝福ですが、そうでない場合は神が定めた基本的な人間関係に破壊ともたらします。第8戒は「盗んではならない」です。他者の所有物を奪うことは、神が他者に与えた権利を侵すものです。また不正な所有は、本来神の所有であるものを人間が私物化してしまう行為です。第9戒は「偽りの証言をしてはならない」です。偽証が行われると公正な裁判が損なわれ、社会は崩壊します。日常生活においても嘘や偽りではなく、真実な言葉を語らなければなりません。第10戒は「隣人の家を欲してはならない」です。貪欲はすべての罪の根源です。隣人と比較して羨んだりするのでなく、神が与えてくださるもので満足しなければなりません。

 これらの戒めを私たちは守らなければなりません。けれども愛がなければ実行できません。人を愛する愛は神から与えられます(Ⅰヨハネ4:7∼)。神が私たちを愛されて、御子イエスを私たちの罪のために十字架で犠牲にしてくださったことによって、私たちは真の愛を知ることができます。また自分に愛がないことを悟ります。神の愛の故に人を愛そうとしていく時、神が完全な愛で私たちの愛の不足を補ってくださるのです。

 イエスは新しい戒めとして、「私があなたがたを愛したように」愛しなさいと命じておられます(ヨハネ13:34)。イエスは父なる神を愛され、私たちを愛してくださいました。私たちに先立って愛の戒めを全うしてくださいました。十戒は石の板に刻まれましたが、神は私たちの心に愛の戒めを刻んでおられます。主の愛のうちに生きるようにしていただきましょう。

2024年9月15日
説教題 「御言葉は自由をもたらす」
聖書箇所 ヨハネによる福音書8章31~47節
説  教 安井 光 師

 「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である」とイエスは言われます。イエスはご自分を信じた者たちに対し(30∼31節)、ご自分が語った御言葉を心に受け入れることを求められました。多くの弟子たちが永遠の命の言葉を受け入れず、イエスの許から離れ去ったからでした(6:60∼66)。一度聞いて分からなかったとしても、その時受け入れられなかったとしても、すぐに退けてしまうのではなく、御言葉にとどまり御言葉を心にとどめることが、イエスを信じた者たちに求められたのです。

 イエスにとどまり、御言葉にとどまることによって、真理を悟ることができます。「真理はあなたがたを自由にする」とイエスは言われます。御言葉にとどまり、イエスご自身にとどまるなら、その人は必ず真理に至るのです(ヨハネ14:6)。聖書の御言葉をとおして、目が開かれ心に光が照らされる。御言葉をとおして、神の恵みの大きさ、神の愛の深さを知らされる。御言葉にとどまることによって、イエス・キリストの十字架の死と復活に救いがあると悟らされる。そのような霊的経験を大事にしましょう。そこに本当の自由があります。

 ユダヤ人たちは、自分たちが罪の奴隷であり、罪からの解放と自由が必要であることを悟ることができませんでした。それは彼らが御言葉にとどまらず、御言葉を受け入れないからでした(37、43、47節)。自分たちは自由だと思い込んでいたのです。それは偽りの自由であり、神を抜きにした自由でした。ユダヤ人だけではないでしょう。人類は創造主なる神の許を離れ、神に背を向けながら自由を追い求めているのです(ルカ15:11∼)。神に対して罪を犯していること、悪魔の奴隷状態にあることを認めなくてはならないのです(34、44節)。

 ユダヤ人たちは、自分たちがアブラハムの子孫であることに固執していました(33、39節)。アブラハムは御言葉に聴き従った人でした(創世記12:4、15:6、22:3)。アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をすべきなのです。使徒パウロは、キリストにとどまる者こそアブラハムの子孫であり、罪の奴隷から解放された神の子どもであり、まことの自由を得ていると語っています(ガラテヤ3:29∼4:7、5:1)。私たちはイエス・キリストの十字架と復活の御業にとどまり、御言葉にとどまりましょう。神によるまことの自由をもたらすために、主イエスは神の子どもらの心に、弟子たちの心に御言葉がとどまり根をおろすことを願いながら御言葉を語られるのです。

2024年9月8日
説教題 「大祭司に任命されたキリスト」
聖書箇所 ヘブライ人への手紙5章1~10節
説  教 安井 光 師

 大祭司はヘブライ人=ユダヤ人にとって大変重要な役割を担う者でした。大祭司は神に召されてその職務に就きました(4節)。大祭司はみな人間の中から選ばれました(1節)。大祭司は人間社会にあって、人々を神に執り成す者として神に立てられていたのです。

 人間は弱さを持つ存在です。詩編8編6節に、神は人間をご自分より僅かに劣る者として造られたとありますが、それは人間の持つ「弱さ」を示しています。弱さは全能なる神が働かれるところです(Ⅱコリント12:9)。大祭司も弱さを身に帯びているので、無知な迷っている人々を思いやり、神に執り成すことができたのです(2-3節)。殊に、「罪のための供え物やいけにえを献げ」、人々の罪を贖う務めは、大祭司にのみ許された働きでした。

 大祭司は仲保者としての役割を果たしました。仲保者として神と人間との間に立ち、こじれてしまった両者の関係を修復するのです。もっとも、関係をこじらせてしまった原因は人間の側にあります。人は自ら神の許を離れ、神に背を向け、神に敵対したのです。それが聖書の告げる罪であります。神は罪人である私たち人間と和解するために、仲保者として大祭司を立てられたのです。

 私たちは罪深い者です。そのままでは聖く正しい神の前に立つことはできません。人間の中から神によって召され、罪のために犠牲の血を携えて神の御前に立つ仲保者によってのみ、私たちは神に受けられることができます。この仲保者、大祭司は罪のない神の御子イエス・キリストであります。キリストこそ、神が私たち全人類のためにお立てになった完全な大祭司なのです(5-6節)。

 キリストは、神の姿で突如この世に現れたのでなく、人の子としてこの世に生まれ、人として生活されました。人間の祈りを聞かれる全能の神であられたのに、祈られなくてはやっていけない有限な人間に、弱さを身に負う人間となられたのです。ゲッセマネの祈りには、キリストの弱さが露わにされています(ルカ22:44、マタイ26:38-39)。キリストは「自分を死から救うことのできる方(神)」に、人間を代表するようにして弱さを示されたのです。

 イエス・キリストは、神と私たちとの間に立たれるまことの大祭司です(9-10節)。私たちの「永遠の救いの源」となられたこの大祭司に、私たちは信頼を寄せようではないでしょうか。この大祭司が父なる神に示された「深い信仰」にならい、全き信頼と従順をキリストに抱きつつ歩みましょう。

2024年9月1日
説教題 「世の光であるイエス」
聖書箇所 ヨハネによる福音書8章12~20節
説  教 安井 光 師

 仮庵祭には神殿に四本の金の燭台が築かれ灯がともされました。その光は荒野を旅した旧約の民を導いた「火の柱」(出エジプト13:21)を象徴するものでした。祭りの最中は人々の心も明るく燃えていますが、祭りが終わると光を失います。彼らには生活全体を照らす光が、人生の旅路を導く光が必要でした。人々は光を持たず「闇の中」に置かれていました。それは神の御心を知らず、神から離れ、神を見失っていたからでした(マタイ4:15∼16)。イエスはそのような罪人の世のありさまを心に留めながら、「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」と宣言されたのでした。イエスこそが闇の中に輝く光、闇の世を照らすまことの光であられたのです(ヨハネ1:5、9)。

 ファリサイ派の人々は、「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と反論し、イエスの言葉を退けました。律法によれば、二人の証しでなければ認められませんでした(17節、申命記19:15)。イエスは神の御子なのでご自身の証しだけで十分だったのですが、もし不十分だというなら「父(神)が私について証しをしてくださる」と言われました。神は御子を諸国民の光とし地の果てまで救いをもたらすことを、預言者を通じて約束しておられたのです(イザヤ49:6)。「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」と、神は御子イエスに聞き従うことを求められたのです(マタイ3:17、17:5)。

 イエスの宣言をどう聞くか、どう受け取るかが大事です。「私に従う者は」とイエスは言われます。イエスの言葉を信じ、聖書に証しされている神の約束を信じてイエスに従うならば、その人は「闇の中を歩まず、命の光を持つ」のです。イエスが光となって私たちの生活を照らし、私たちの人生の道程を照らされるのです。イエスは十字架の贖いと死からの復活によって、私たちの心から罪と死と悪魔の闇を取り除き、光で覆われるのです。人生に迷うことがあっても、御言葉が命の光となり私たちの心を照らすので平安に生きることができるのです(詩編119:105)。

 かつてはファリサイ派で主イエスに反対していたパウロも、主の光が当てられて闇から光に移されるに至りました(使徒26:12∼18)。パウロの如く主に従う者たちも、世の光とされ光の子とされています(マタイ5:14、エフェソ5:8)。私たちは主に聴き従い、光の中を歩み続けましょう。主の光に照らされ、命の光に生かされ、主の光を輝かせましょう。