過去の礼拝メッセージの音声を配信をしています。

2025年11月30日
説教題 「メシア預言」
聖書箇所 ゼカリヤ書9章9~10節
説  教 安井 直子 師

2025年11月23日
説教題 「主が共におられるので」
聖書箇所 民数記13章25節~14章10節
説  教 安井 光 師

 イスラエルの民は約束の地カナンの目前に来ました。十二人の偵察隊が40日間土地を調査し、大きな果実を携えて戻り、「まことに乳と蜜の流れる地でした」と報告しました。主は今日も、信じる者のために天の御国という永久の住まいを備えておられます。主イエスは「あなたがたのために場所を用意する」(ヨハネ14:2)と約束され、使徒ヨハネはその素晴らしさを証ししています(黙示録21章)。

 ところが偵察隊は喜びの報告の後、カナンの住民は強大で町は堅固であり、とても勝てないと告げ、悪い噂を広げました。民は恐れに囚われ、「エジプトへ帰ろう」とまで叫び、夜通し泣きました。現実の困難を思えば理解できる面もありますが、主は彼らに信仰を求めておられたのです。

 ただし偵察隊全員が不信仰に陥ったのではありません。ヨシュアとカレブの二人は信仰の視点から民を励まし、「ぜひ上って行くべきです。そこを手に入れましょう」と語りました。さらに、「私たちには主が共におられます。彼らを恐れてはなりません」と語り、民を励ましました。信仰とは、現実を見ないことではありません。主がどのように見ておられるかを思いつつ、現実の中で主に目を注ぐことです。トリックアートが見る角度によって全く違って見えるように、十二人は同じものを見て、十人は恐れを、二人は主への信頼を見たのです。

 民は二人の言葉を受け入れず、石で打とうとしました。主はイスラエルの不信仰を怒られ、御言葉に従わなかった者たちは約束の地に入れず、イスラエルの民は40年間荒野を放浪することになりました(14:21∼)。私たちの信仰生活も荒野の旅に重ねられることがありますが、イスラエルの不信仰を仕方ないと安易に自分に当てはめるべきではありません。ヘブライ書の著者はこの出来事を踏まえつつ、「福音を信仰によって聞く」者こそ安息に入ると語ります(ヘブライ4:1∼3)。ヨシュアとカレブがそうであったように、私たちも主の御言葉を信仰をもって受け取り、主が約束しておられる安息へと入らせていただきましょう。

 「私たちには主が共におられます」。ヨシュアとカレブが語ったこの励ましの言葉は、今の私たちにも与えられています。主が共におられるからこそ、私たちは困難を乗り越え、戦いに勝利し、約束の地へと進むことができます。恐れに心を支配されるのではなく、主を信頼し、主の御言葉に従って前進していきたいと思います。主は必ず道を開き、私たちを備えられた祝福へと導いてくださいます。

2025年11月16日
説教題 「助け主と共に生きる」
聖書箇所 ヨハネによる福音書16章1~15節
説  教 安井 光 師

 私たちは皆、イエスの証し人として生きるように召されています。しかし日本社会において信仰を公にし、イエスを証しして生きることは容易ではありません。迫害や孤独を伴う歩みがあります。主イエスは私たちがつまずかないように、弟子たちが直面する困難を前もって告げ、同時に「助け主」である聖霊が共にいて助けてくださると約束されました。

 イエスは「この世はあなたがたを憎む」と予告され、会堂から締め出されるほどの迫害を受けることも語られました。使徒言行録に記される初代教会の迫害はその成就です。しかしイエスが前もって語られたので、弟子たちは覚悟を与えられ、恐れの中にも希望を持つことができました。ペトロも迫害の只中で「火のような試練を驚き怪しむな」と語っています(Ⅰペトロ4:12∼)。主の言葉が彼を支えていたのです。

 私たちも家族や友人の救いのために祈る中で、拒絶や冷たい態度に心が痛むことがあります。ある姉妹は夫から「キリストを取るか私を取るか」と迫られましたが、祈りつつ仕え続けた結果、夫も信仰へ導かれました。主は私たちの痛みを知っておられます。

 イエスは「私が去って行くのはあなたがたのためになる」と語られ、天に昇られて後に聖霊が遣わされました。聖霊が来られることで弟子たちは真理を悟り、大胆な証し人へと変えられます。ペンテコステには三千人が救われ、福音は世界に拡がりました。もしイエスが去られず聖霊が来られなかったなら、福音は広がらず、日本にも届かなかったでしょう。イエスの昇天は、実に祝福の始まりだったのです。

 「弁護者=助け主(パラクレートス)」である聖霊は、私たちの傍らに立ち、励まし、支え、倒れそうな時に立たせてくださる方です。罪人の友であり、戦いの中で勝利へ導かれるお方です。聖霊は、復活の主イエスご自身の霊として、世の終わりまで共におられるのです。

 聖霊は「罪・義・裁き」について世の誤りを明らかにします。罪とはイエスを拒むこと、義とは十字架と復活によってイエスが神の子であると証明されたこと、裁きとはサタンがすでに敗北したことです。これらを悟らせるのが真理の霊である聖霊です。

 弟子たちは当初イエスの語ることを理解できませんでしたが、聖霊によって真理に導かれ、確信を与えられました。私たちも同じです。聖霊が心に確信を与えてくださる時、恐れの中でも主を証しして生きる力が与えられます。助け主なる聖霊は今日も私たちを導き、支え、証し人として立たせてくださいます。

2025年11月9日
説教題 「一緒に城壁を直そう」
聖書箇所 ネヘミヤ記2章1~8、20節
説  教 安井 直子 師

 昔、イスラエルの国は戦争に負け、多くの人が遠いバビロンに連れて行かれました。長い年月のあと、少しずつ人々はエルサレムに帰れましたが、町は荒れ、城壁は壊れ、門は焼かれたままでした。ネヘミヤはそのころ、まだ外国に残り、王さまの大切な仕事をしていました。王からとても信頼されていたのです。

 エルサレムの様子を伝える人たちの話を聞いたネヘミヤは深く悲しみ、何日も泣きながら神さまに祈りました。「神さま、どうか私たちを助け、罪をゆるし、もう一度あなたの民として立ち上がらせてください」。ネヘミヤの祈りは自分のためではなく、みんなのためのものでした。

 ある日、王さまはネヘミヤの顔を見て「どうしたのだ?元気がないようだが」と声をかけました。そのときネヘミヤは勇気を出して王さまに言いました。「エルサレムの町は壊れたままです。城壁を立て直すために行かせてください」。王さまは「よろしい、それでは行って来なさい」と言い、材料や手紙も整えて送り出してくださいました。神さまはネヘミヤの祈りに応え、道を開かれたのです。

 エルサレムに着いたネヘミヤは夜、ロバに乗って城壁のまわりを見て回り、心に誓いました。「何としても神さまの町を立て直す」。翌日、ネヘミヤは人々を集めて言いました。「町は荒れていますが、神さまが私をここに送ってくださいました。神さまの助けを受け、みんなで城壁を建て直しましょう」。人々は勇気をもらい、「そうだ、立ち上がろう」と応えました。こうして多くの人が協力し、神さまに守られながら工事を始めました。

 神さまは今も、祈る人、考える人、励ます人、手を動かす人、それぞれを用いて働かれます。教会でも家庭でも学校でも、みんなで助け合うとき、神さまは喜ばれます。神さまは「一人の力」ではなく、「みんなで一緒に働くこと」を望んでおられます。壊れて弱った場所にも、神さまは「そのままで良い」とは言わず、「もう一度立て直そう」と呼びかけます。そして、回復の中心には祈りがあります。ネヘミヤは悲しいときも、王さまの前でも、働きの途中でも祈りました。私たちも短く祈れます。「神さま、助けてください」「神さま、知恵をください」と。小さな祈りでも神さまは聞いてくださいます。私たちも、ネヘミヤのように立ち上がりましょう。家族を助けたり、友だちを励ましたり、教会で奉仕したり、兄弟姉妹のために祈ったり。小さな一歩が、神さまの大きな働きにつながります。神さまは今日も、私たちを用いて、ご自身の栄光を現してくださるのです。

2025年11月2日
説教題 「わたしもアンデレ~目立たない弟子」
聖書箇所 ヨハネによる福音書1章35~42節
説  教 ゲイリー・ホーガン 師
通  訳 高辻 美恵 姉

 アンデレは目立つタイプの弟子ではありませんでした。でも、彼は決定的な場面で、誰かをイエスさまのところへ連れていく役割を担っています。これは、ただ人柄が良かったからではなく、彼が主を信じる方向性をはっきりと持っていたからだと思います。人より前へ出るのではなく、主の許に人を連れていく。その姿勢です。救われた日、洗礼を受けた日。あの日、私たちの心の中には確かに「このお方こそ救い主だ」と分かる瞬間がありました。あの感動は一瞬のものではなく、いまも心の奥で灯火のように燃えています。信仰とは、あの火が消えないように、日々油を注ぎ続ける歩みでもあります。

 アンデレは主役ではありません。しかしイエスさまは、この忠実な裏方を重んじられました。五千人の給食の場面、アンデレは、パンと魚を持つただの少年を主の所へ連れて行きます小さなものでも、主の御手に置かれるとき、信じられないほどに増し加えられる。これは私たちの奉仕にも当てはまります。大きな力や特別な才能がある人だけが用いられるのではありません。普通の私、平凡な私、欠けている私。まさにその私を、主は必要としておられるのです。「私なんか」という思いで退く必要はありません。むしろ、小さな献げ物を大切にする神さまの心を思い起こすとき、私たちはもっと大胆に、もっと喜びをもって、主の前に身を差し出すことができるはずです。

 来年5月、愛媛県民文化会館で伝道大会が行われます。大勢が福音を聞くでしょう。しかし「連れて行く役割」を担うのは、壇上に立つ人ではなく、私たち一人ひとりです。教会に来られていない家族、友人、職場の仲間、近所の方。その中には、あなたにしか届かない魂があります。福音宣教は、牧師や宣教師だけの仕事ではありません。主は全ての信じる者に「行きなさい」と語られました。福音宣教は〝提案〟ではなく〝命令〟です。恐れがあっても、足がすくんでも、アンデレのように一歩を踏み出す。その一歩を主は祝福されます。たとえ一人であっても、心に名前を書き留め、祈り、機会を待ち、神さまの時を信じて歩むのです。

 小さな忠実は永遠に残ります。天に帰る日に「よくやった、忠実な僕よ」と言われるために、今日を生きるのです。神さまは日本を愛しておられます。松山を愛しておられます。そしてあなたを、主の働きのために今も招いておられます。どうか勇気をもって、名前を心に刻んで祈り、アンデレのように一人を主のもとへ導く生涯を歩みましょう。

2025年10月26日
説教題 「幕屋に満ちた神の栄光」
聖書箇所 出エジプト記40章34~38節
説  教 安井 光 師

 イスラエルの民が荒野を旅するうえで最も必要だったのは、神が共におられるという確信でした。雲が幕屋を覆い、神の栄光が満ちたとき、人々は神の臨在を確かに感じたのです。雲が動けば出発し、留まれば宿営しました。神ご自身が彼らのただ中におられ、導かれていたのです。

 出エジプトの出来事、紅海の奇跡、マナや水の供給、シナイでの契約、そして幕屋の完成。これらすべてが神の栄光の現れでした。しかし民は金の子牛を造って偶像礼拝の罪を犯します。モーセは「どうかあなたの栄光を私にお示しください」(33:18)と祈り、神は幕屋を造らせて臨在のしるしとされました。幕屋は、神が民のただ中に住まわれるという約束の象徴だったのです。

 やがて神は御子イエス・キリストを遣わし、この世に真の幕屋を張られました。「言は肉となって、私たちの間に宿った」(ヨハネ1:14)。イエスこそ神の栄光そのものであり、恵みと真理に満ちた神の現れでした(ヘブライ1:3)。イエスの姿が山上で変わり、顔が太陽のように輝いたとき、弟子たちはその神性を悟ります。しかもイエスが語られた「最後のこと(エクソダス)」とは、十字架の死と復活を通して成し遂げられる新しい出エジプト、すなわち罪と死からの解放でした。これこそ神の栄光の頂点です。

 今、神の栄光はどこに現れているのでしょうか。それはイエスを信じる一人一人の中にあります。私たちが救いにあずかった出来事そのものが神の栄光の現れです。神の愛、聖さ、正しさ、偉大さ、力、永遠性を私たちはそこに見ることができます。聖霊は日々の歩みの中で働き、私たちを照らし、神がどのようなお方かを教え続けておられます。

 パウロは「私たちは主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えられていく」(Ⅱコリント3:18)と言いました。神の栄光を仰ぐ者は変えられていきます。モーセの顔が神の輝きに照らされたように、神と共に歩む人の顔もまた光を帯びます。いきいきしたクリスチャンは、神の臨在に照らされて輝いているのです。礼拝や祈り、日々の出来事を通して神に出会うとき、私たちのうちに神の栄光が宿ります◆イエス・キリストは神の栄光に満ちた真の幕屋です。教会はキリストの体であり、キリストが満ちておられるところです。教会こそ神の栄光が満ちる場所であり、私たち一人一人も聖霊の宿る小さな幕屋です。私たちの存在を通して神の栄光が世に現れるのです(Ⅰコリント6:19∼20)。

2025年10月19日
説教題 「神の選びと目的」
聖書箇所 ヨハネによる福音書15章11~17節
説  教 安井 光 師

 イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」。弟子たちは自分が主を選び従ったと思っていましたが、実はイエスの側からの選びが先にありました。私たちも同じです。家族や友人の導き、あるいは人生の悩みを通して教会に来たとしても、それは主の恵みの選びによるものです。

 旧約では、神がイスラエルを「愛のゆえに」選ばれたと記されています(申命記7章)。パウロも「神が私たちを救ったのは、行いによらず恵みによる」と語りました(Ⅱテモテ1:9)。神の選びは人間の功績によらず、無条件の愛と計画によるものです。しかし神は強制される方ではありません。愛をもって招き、私たちの信仰の応答を待たれるのです。信仰とは、神の選びに「はい」と応えることです。

 では、神は何のために私たちを選ばれたのでしょうか。イエスは「行って実を結び、その実が残るように」と言われました。選びには目的があります。それは実を結ぶことです。ヨハネ15章前半でイエスは「私はまことのぶどうの木」と語られました。枝である私たちが主にとどまるとき、「愛、喜び、平和…」といった御霊の実が結ばれます(ガラテヤ5:22)。それは私たち自身のためではなく、神の栄光を現すためにあります。

 「行って実を結び」とは、主が遣わされる場所で証しし、他の人をも主の愛へ導くことです。ビリー・グラハム師は世界中で福音を語りましたが、「大衆伝道ではなく、大規模な個人伝道を信じる」と語りました。主に選ばれた一人一人が、身近な人のために祈り、証しすることこそ主の望みです。イエスが言われる「実」は単数形で、ひとつの実が次の実を生み、残っていくことを示しています。実を結ばせるのは聖霊です。私たちは主にとどまり、御言葉に生きるときに実を結ぶのです。

 この言葉は、イエスが十字架にかかられる前夜に語られました。「互いに愛し合いなさい」との命令に挟まれており、選びの目的の中心は「愛」であると分かります。イエスは弟子たちを「友」と呼び、彼らのために命を用いられました。私たちもまた、愛する者のために命を「使う」よう召されています。

 イエスは「この囲いに入っていない羊をも導かなければならない」と言われました。主の愛は私たちの外にも向けられています。主は私たちを選び、愛をもって遣わされます。「あなたがたが行って実を結び、その実が残るように」。御言葉に応えて、主の愛のうちにとどまり、その使命に生かされてまいりましょう。

2025年10月12日
説教題 「霊によって歩む」
聖書箇所 ガラテヤの信徒への手紙5章16節
     ローマの信徒への手紙8章14~15節
説  教 篠崎 和 師

 パウロは、霊(聖霊)によって歩む者は霊の実を結ぶと語ります。「霊によって歩む」とはどういうことでしょうか。

 第一に「神の子どもとして歩む」ことです。ローマ8章は、「神の霊に導かれる者は神の子」であると教えます。神の子として生きるとは、恐れに支配された奴隷のように「神に見捨てられるのでは」と怯えるのではなく、父なる神の愛のまなざしの中で安心して生きることです。園児が親の顔を探し、見つけて笑顔になるように、神はいつも私たちを見つめておられます。私たちはその愛のまなざしに守られ、神の子として歩むのです。どんな時も、神は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者だ」と語りかけておられます。この確信のうちに歩むことこそ、聖霊によって歩む生活の第一歩です。

 第二に「聖霊に導かれて歩む」ことです。霊に導かれるとは、人生の主体が「私」ではなく「聖霊」であるということです。聖霊が私たちの人生の責任を負い、すべてを導いてくださいます。失敗や弱さの中にも神の計画と導きが働いていることを知るとき、私たちは心に平安を得ます。自分で人生をコントロールしようとする時、重荷に押しつぶされますが、聖霊に信頼して委ねる時、心に余裕と平安が生まれます。私たちの歩みは偶然ではなく、すべてが御霊の確かな導きの中にあります。聖霊の導きを意識しながら生きることで、日々の生活が祝福に満ちたものとなるのです。

 第三に「聖霊に導かれて生活する」ことです。「霊的なこと」と「霊的でないこと」を区別するのではなく、生活のすべてが聖霊の導きの中にあると知ることが大切です。聖書を読む時も、家事をする時も、働く時も、遊ぶ時も、すべての瞬間に聖霊は共におられ、導いてくださっています。信仰生活とは、日常の一つひとつの出来事を通して、神の臨在に気づかされていく歩みなのです。私たちの何気ない毎日の行動も、聖霊によって意味あるものに変えられていきます。

 ある母親が赤ん坊の世話で祈る時間も取れず悩んでいた時、牧師は「授乳そのものがあなたの霊的な行いです」と語りました。神の臨在を意識し、今していることを心を込めて行うとき、それが聖霊によって生かされた生活になるのです。

 「霊によって歩む」とは、特別な行為ではなく、日常のただ中で神の愛のまなざしを覚え、聖霊の導きを信頼して生きることです。その時、聖霊は私たちの内に「愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制」という実を結ばせてくださるのです。

2025年10月5日
説教題 「実り豊に生きる」
聖書箇所 ヨハネによる福音書15章1~11節
説  教 安井 光 師

 イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と語られました。旧約ではイスラエルが「ぶどうの木」に譬えられ、神は良い実を期待して手を尽くされたにもかかわらず、悪い実を結びました(イザヤ5章)。神は良いものとして人を造られましたが、人は神を離れ、自分中心に生きるようになり、結果として破壊と争いを生み出しました。そんな人間を滅ぼすことではなく救うために、神は御子イエスを「まことのぶどうの木」としてこの世に遣わされたのです。イエスはご自身が良い実を結ぶだけでなく、私たちにも良い実を結ばせてくださるのです。

 イエスは「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われます。枝が幹に接ぎ木されているように、私たちは十字架の贖いによってイエスに結び合わされたのです。イエスの裂かれた体と流された血によって、私たちはイエスにつながれたのです。「つながっていなさい」と訳される言葉(メノー)には、「とどまる」「宿る」という意味があります。イエスは「わたしにとどまりなさい。わたしの愛にとどまりなさい」と語られました。それは一時的な関係ではなく、永続的な愛と交わりの関係です。父がイエスを愛されたように、イエスも私たちを愛し、私たちがその愛に生きることを願っておられます。

 イエスにつながっていれば必ず実を結びます。主は「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と約束されました。実を結ぶ力は私たち自身にあるのではなく、ぶどうの木であるイエスから命の供給を受けていることにあります。私たちがイエスにとどまるとは、主の御言葉にとどまることです。御言葉は霊の糧であり、そこから命を受けて成長し、実を結ぶのです。父なる神は、私たちがより豊かに実を結ぶように、試練や出来事を通して信仰を清めてくださいます。

 では「実」とは何でしょうか。ガラテヤ5章22~23節にある「御霊の実」がそれを示しています。中でも「愛」「喜び」「平安(平和)」はイエスが特に強調されたものです。イエスにとどまるとき、私たちは神と隣人を愛し、困難の中でも喜びを見出し、どんな状況でも平安を保つことができます。これらの実は私たち自身の努力や徳によるものではなく、イエスとの交わりによって自然に結ばれていくものです。

 主イエスの愛にとどまり、御言葉にとどまり、主イエスに信頼して歩むとき、私たちの人生は実り豊かにされます。主の愛と恵みに根を下ろし、主につながって実り豊かに歩ませていただきましょう。

2025年9月28日
説教題 「神と共に生きる人生」
聖書箇所 詩編90編1~12節
説  教 安井 光 師

 召天者記念礼拝は、すでに天に召された兄弟姉妹や家族を覚え、その生涯を導かれた主を礼拝する時です。そして今を生きる私たち自身も、やがて天に召されることを思い起こす時でもあります。聖書で「人」と訳される言葉には「顔を上に向ける者」という意味があります。人は天を仰ぎ、神に心を向けて生きる存在なのです。

 詩編90編は「神の人モーセの祈り」と題されています。イスラエルを40年導いたモーセは、偉大な指導者でありながら人生の儚さを痛感していました。「我らのよわいは七十年、健やかであっても八十年」と語り、人生が吐息のように過ぎ去ることを覚えていたのです。現代は長寿社会ですが、長さよりも魂が安らぎ、心が満たされた日々こそ幸いな人生といえるでしょう。人生は「時の積み重ね」であり、有限であるからこそ重みがあります。

 モーセは人生の短さを見つめつつも、虚しさに沈んではいませんでした。天地を創られた神が目的をもって人を生かし、支配しておられると信じたからです。人は自ら生まれ生き死ぬのではなく、神によって生かされ、神によって人生を閉じられる存在です。だからこそ「我らの住まい」と呼ばれる主のうちに憩いを見出すことができました。教会もまた神の家であり、私たちにとっての安らぎの場です。召天者たちもその信仰に生きたのです。

 モーセが学んだのは「残りの日々を数える」ことでした。それは、神から与えられた人生を感謝して受け取り、一日一日を神と共に歩むことを意味します。人生には多くの出会いがありますが、決定的なのは神との出会いです。モーセ自身、80歳で神に召され、以後40年を神と共に歩み、使命に生きました。彼の人生が幸いであったのは長寿や功績によるのではなく、神と共に生きたからです。

 使徒パウロも同じです。彼はかつて教会の迫害者でしたが、復活の主に出会い人生が一変しました。「神の恵みによって、今の私がある」(Ⅰコリント15:10)と証しし、多くの苦難の中にあっても喜びと感謝に満ちた生涯を送りました。神と共に生きることで、虚しさではなく平安と希望に満たされたのです。

 私たちの人生にも労苦や災いがありますが、主が共におられるゆえに無意味ではありません。召天者たちがそうであったように、天を仰ぎつつ、日々を神と共に生きる者とされたいのです。主は終わりまで私たちを導かれます。主に信頼しつつ、一歩一歩を共に歩んでまいりましょう。

2025年9月21日
説教題 「福音を恥としない」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙1章8~17節
説  教 安井 光 師

 パウロは「私は福音を恥としない」と告白しました。彼にとって福音は全存在をかけて宣べ伝えるものであり、同時に自らを生かす力そのものでした。私たちもまず自らが福音に生かされているかを問い、確信を持つことが大切でしょう。

 パウロはローマを世界宣教の拠点と見るビジョンを持ち、熱望をもってローマに行こうとしました。その根底にあるのは、福音そのものへの信頼です。彼が「誇りとする」ではなく「恥としない」と語ったのは、当時の人々が十字架のキリストを愚かと見なしたからです。しかしパウロは「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(Ⅰコリント1:25)と訴え、迫害を受けてもなお、ローマの人々にこの福音を宣べ伝えようとしました。

 では、なぜ福音を恥としないのでしょうか。それは福音が「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」だからです。ここで「力」と訳された言葉「デュナミス」はダイナマイトの語源であり、爆発的な力を意味します。それは破壊ではなく、人を造り変え、生かす救いの力です。民族や文化の壁を越えて、すべての人に働く力です。私たちは救いの証しを自分自身や周囲のクリスチャンに見いだすことができます。変えられた姿こそ、神の力の現れです。

 パウロはローマの信徒の信仰を「世界中に語り伝えられている」と称賛しました。彼らの証しが福音の力を示していたのです。私たちもまた福音を信じることによって同じ力を受けています。たとえ実感が薄いと感じても、神の力はすでにすべての信徒に等しく働いています。それは「義とされる」というかたちで現れます。神は御子イエスに私たちの罪を負わせ、十字架において裁きを下されました。私たちは赦され、神との交わりを回復する者とされたのです。

 この救いは、信仰によって始められ、信仰によって導かれ、信仰によって完成に至るとパウロは言います。「正しい者は信仰によって生きる」とのハバクク書2:4の言葉は、自分の力を誇らず神に信頼して歩むことを意味します。その時、救いの素晴らしさが具体的に表れます。私たちはパウロほど熱心でなくとも、福音を証しするように召されています。証しの機会や力は聖霊が備えてくださいます。必要なのは神に自らを委ね、私を用いてくださいと祈ることです。

 イエス・キリストの福音に示された神の愛と義と力は、山よりも高く、海よりも深いものです。それは人を新しく造り変える力であり、私たちはその恵みをさらに味わい、喜びをもって宣べ伝えてまいりましょう。 

2025年9月14日
説教題 「バルテマイの癒し」
聖書箇所 マルコによる福音書10章46~52節
説  教 安井 直子 師

 イエス様と弟子たちがエリコを出てエルサレムへ向かう時、道端に盲人バルティマイが座って物乞いをしていました。彼は目が見えず、人々の施しに頼るしかありませんでした。彼にとって人生は暗闇そのものでしたが、通り過ぎる人々の会話を必死に聞き取っていました。そこに「ナザレのイエスが通られる」との知らせを聞いた時、心は大きく揺さぶられました。噂に聞いていた救い主が、今まさに自分の前を通られる。彼はすぐに「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫びました。

 周囲の人々は彼を叱り、黙らせようとしました。しかし彼は諦めず、むしろますます大声で「ダビデの子よ、私を憐れんでください」(48)と叫び続けました。人々の冷たい視線の中でも、彼の信仰は押しとどめられず主を求め続けました。ここに祈りの姿勢の大切さが示されています。妨げがあっても、神に向かって心を注ぎ出すことが信仰なのです。

 イエスは声を聞き立ち止まり、「あの人を呼んできなさい」と命じられました。人々は「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」と伝えます。するとバルティマイは上着を脱ぎ捨て、跳び上がってイエスのもとに進み出ました。彼にとって上着は生活の唯一の財産であり、夜には身を覆う命綱でした。それを投げ捨ててまで主に進み出た姿は、決意と信頼を物語っています。信仰とは、自分の拠り所を手放してでも主にすがる姿勢です。

 イエスは「何をしてほしいのか」(51)と問いかけられました。バルティマイは「先生、また見えるようになることです」と率直に願いを告白しました。隠さず飾らず、自分の最も深い必要をそのまま主に差し出したのです。その信仰に対してイエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と宣言されました。その瞬間、彼の目は開かれ、光が差し込み、新しい人生が始まりました。そして彼は癒されただけでなく、イエスに従って道を進んでいったのです。

 癒しを受けた後も自分の道に戻らず、イエスと共に歩みました。信仰は願いの実現で終わらず人生を主に委ねていくことです。

 私たちも暗闇や不安に直面します。孤独を味わうこともあります。しかし主は必ず立ち止まり、私たちの叫びに耳を傾けてくださいます。必要なのは、バルティマイのように諦めずに主に願い、すべてを委ね従う信仰です。

2025年9月7日
説教題 「福音に召された人」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙1章1~7節
説  教 安井 光 師

 ローマ書は使徒パウロによって書かれました。冒頭の挨拶には差出人パウロ、受取人ローマの信徒たち、内容イエス・キリストの福音が示されています。直接の読者はローマの信徒ですが、これは今を生きる私たちにも語られています。パウロは自らが福音により使徒として召されたことを語り、私たちもまた福音により聖なる者として召されたことを示しています。

 パウロは「私はキリスト・イエスの僕であり、使徒として召され、神の福音のために選び出された者」と自己紹介しました。ローマ市民であった彼があえて「僕=奴隷」と言うのは、かつて律法や罪の奴隷であった自分が、キリストに捕えられ、真の自由を得たからでした。パウロは「神の福音のために」選ばれ、召されました。これは彼の志によるのでなく、「神の恵みによって、今の私がある」と告白するように、神の恵みによるものです。キリストご自身が僕の姿をとり十字架に命をささげられ、パウロを主の僕・使徒として召されたのです。

 挨拶の途中、パウロは情熱を抑えきれず福音について語り始めます。「この福音は御子に関するもの」であり、旧約聖書を通して約束された救いがイエスにおいて成就したと述べます。御子は「肉によればダビデの子孫として」生まれ、「霊によれば復活によって力ある神の子」と明らかにされました。つまり福音とは、神の御子が人となり十字架に死に復活されたイエス・キリストその方ご自身です。福音書は、イエスと出会った人々の記録です。私たちもまたアンデレのように(ヨハネ1:41)、イエスを人々に紹介しようではありませんか。

 7節にあるように、ローマの信徒は「神に愛され、聖なる者として召された人々」でした。彼らは直接イエスに会ったのではなく、御言葉を通して召されました。異邦人もユダヤ人も、自力で神のものにはなれません。ただ神に召され、イエスに属する者とされるのです。彼らが「神に愛され、聖なる者として召された」のは、イエスの十字架の贖いによるのです。私たちもまた同じです。

 ビリー・グラハム師は、「キリストを信じると新しい使命が与えられ、人を自分のためではなく、何ができるかと見られるようになる」と語りました。私たちも福音に召された者として、新しい使命―福音を分かち合う使命―を与えられています。召しとは目的をもって名を呼ばれることです。主が私たちを呼ばれたように、隣人を招くためにも私たちを用いられます。福音に召された者として、福音を分かち合い、福音に生かされましょう。

2025年8月31日
説教題 「偶像から身を守りなさい」
聖書箇所 出エジプト記32章1~14節
説  教 安井 光 師

 モーセは、イスラエルが神の民としてどのように歩んでいけばよいかを、詳しく神に聞くためにシナイ山に登りました。民はモーセがなかなか帰ってこないので不安に思い、「私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってください」とアロンに願いました。アロンは民から集めた金の耳輪で子牛の像を造り、これが「あなたの神だ。これがあなたをエジプトから導き上ったのだ」と言い、祭壇を築いて礼拝しました。主なる神はその様をご覧になり、激しい怒りを覚えられたのです(9∼10節)。

 主は偶像礼拝の罪を戒めておられます(十戒)。日本は偶像礼拝の温床のような状況にあります。偶像とは神社仏閣に奉られている仏神のみならず、人間が造りだしたもので、まことの神以上に重んぜられ、信頼と崇拝の対象となっているものを指します。しかしそれらは神ではなく、神となることはできません。まことの神は人間の手で造り上げられるものでなく、人間を造り、万物を創造されたお方だからです。イスラエルの民は自分たちにとって都合の良い神、自分たちの思い通りにしてくれる神を求めましたが、私たちも似たようなことをしてしまうものではないでしょうか。

 主なる神はご自分の民であるイスラエルが金の子牛を造り、自分たちの神として拝んだのを深く悲しまれ、怒りを発せられました。この「かたくなな民」にさばきを下し、断ち滅ぼすとモーセに告げられました。モーセは必死になって、民の犯した罪の赦しを願い、執り成しの祈りを主にささげました(11∼13節)。主は、「民に下すと告げた災いを思い直された」のでした。モーセは民の罪の赦しのためなら、自らが滅びても構わないとさえ考えていたのです(30∼32節)。使徒パウロも同胞が救われるためなら、自らがキリストから引き離されることさえ望みました(ローマ9:1-3)。彼らの心には、滅び行く魂に対する憐れみと救霊の情熱がありました。

 主は罪を憎まれ、罪を罰せられるお方です。しかし主に逆らい偶像礼拝に陥っている私たち人類を滅ぼさないで、その罪を贖うためにご自分の大切なひとり子イエスを十字架でさばかれたのです。イエス・キリストは、神に逆らう全人類の罪の赦しを願い、十字架上で祈りをささげ、ご自身の死をもって完全な執り成しをしてくださったのです。それは、私たちが偶像礼拝ではなく、唯一のまことの神を礼拝するため、主と顔と顔を合わせて、愛の交わりの中に生きるためなのです(Ⅰヨハネ5:18∼21)。

2025年8月24日
説教題 「あなたの名を呼ばれる神」
聖書箇所 ルカによる福音書19章1~10節
説  教 安井 巌 師

 ザアカイの物語は、教会で繰り返し語られてきた愛される箇所です。なぜ何度聞いても新鮮なのか。それは聖書が「私たち自身の物語」として響くからです。ザアカイにイエスが出会われたように、今ここで聖書を聞く私に主が出会い、語りかけてくださると信じるからです。

 ザアカイは「徴税人の頭で金持ち」でした。ローマ帝国の支配下で同胞から税を取り立て、不正も許されていたため、人々から憎まれ、差別されていました。その背景には「背が低かった」という事実があります。幼い頃からの劣等感や嘲笑、差別が彼を頑なにし、権力と金で人々を見返そうとする生き方へと駆り立てたのです。しかし、そうして地位や財を得ても心は満たされず、孤独と虚しさを抱えていました。

 だからこそ、自分の町に来られたイエスを一目でも見たいと強く願い、人目をはばからず木に登りました。噂に聞く「罪人の仲間となって食事をしてくださる方」を確かめたかったのです。すると驚くべきことに、イエスの方からザアカイに近づき、「急いで降りて来なさい。今日はあなたの家に泊まることにしている」と呼びかけられました。ザアカイはその言葉に引き込まれ、喜んでイエスを迎え入れました。

 ここに救いの本質があります。救いは人の努力や準備によってではなく、神の「あなたを救わなければならない」という決意によって与えられるのです。ザアカイはその御心に捕らえられ、人生が180度変えられました。彼は自らの罪を認め、財産の半分を貧しい人に施し、不正に得た分は四倍にして返すと宣言しました。頑なだった心が、神の愛に打ち砕かれて柔らかくされた瞬間です。

 周囲の人々は「罪深い男のところに泊まった」とつぶやきました。しかしまさにその罪人を救うためにイエスは来られたのです。問題は彼らが自らをも罪人として認められず、イエスに招かれる必要を感じなかったことでした。

 ザアカイの物語は、私たち自身の姿を映す鏡です。人から差別され、拒まれる経験は誰にもあり、私たちもまた心を頑なにして壁を築き、孤独に陥ります。しかしイエスはその壁を破り、名を呼んでくださいます。「あなたの家に泊まる」と迫ってくださるのです。そのとき、私たちが真に求めていた喜びは、地位や成功ではなく、主を迎え入れることそのものだったと気づかされます。

 主は私たちに語られます。「あなたを愛し、救わなければならない」と。私たちがその呼びかけに応え、喜んで主を迎え入れるとき、新しい人生が始まるのです。

2025年8月17日
説教題 「平安をもたらす弁護者」
聖書箇所 ヨハネによる福音書14章15~31節
説  教 安井 光 師

 「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない」と語られたイエスの言葉は、弟子たちの不安に満ちた心を照らす希望の光でした。イエスは、「もう一人の弁護者」、すなわち聖霊を父なる神に願い、遣わされると約束されます。弁護者とは、「傍らに呼ばれた者」、助け手であり慰め主であり、執り成し手です。イエスが共にいてくださったように、聖霊が永遠に私たちと共にいてくださるのです。

 この約束は、イエスを信じるすべての者に与えられた恵みです。目には見えない聖霊は、しかし確かに私たちの傍らに、あるいは心のうちに住んでくださいます。そして、私たちがイエスの言葉を思い起こし、真理を理解し、信じる信仰に生きることができるよう導いてくださいます。

 私たちは聖書を読み、説教を聞くとき、心が熱くなる経験をすることがあります。それは聖霊の働きによるのです。聖霊は御言葉を開示し、私たちにイエスの愛と救いを深く悟らせてくださいます。イエスが語られた「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めも、聖霊が私たちの内に住まわれることで真実に受け入れられ、実行されていくのです。

 私自身、人生のある時期に挫折し、将来が見えなくなったことがありました。不安と孤独の中で与えられたのは、「それは災いではなく、平安を与える計画だ」という御言葉でした(エレミヤ29:11)。その時私は、神が私にも計画を抱いておられることを知り、自分が独りではないことを知らされました。見えないけれど確かにおられる神の霊が、私の内に働いておられたのです。

 イエスは、私たちに「平和を与える」と言われました。それは、世の与える一時的な安心ではなく、神との和解によってもたらされる真の平和(平安)です。この平安は、たとえ困難や苦しみの中にあっても、私たちを支え、揺るがない安らぎを与えます。8月というこの時期、私たちは平和の大切さをあらためて思い起こします。しかし本当の意味での平和は、ただ戦争がないことではなく、神と和解し、隣人と愛し合う関係の中にあるのです。

 私たちはこの世に生きている限り、不安や恐れと無縁ではいられません。サタンはさまざまな方法で私たちの心を脅かそうとします。しかし、イエスは「心を騒がせるな。おびえるな」と言われます。聖霊が、今も私たち一人一人の内に住んでくださり、日々の歩みを支えてくださいます。「立て。さあ、ここから出かけよう」とイエスは語られます。今週もまた、聖霊に助けられ、イエスに従って歩み出していきましょう。

2025年8月10日
説教題 「広い道を歩こう」
聖書箇所 ヨハネによる福音書14章5~7節
説  教 安井 聖 師

 ヨハネ14章6節で、主イエスは「わたしは道である」と語られます。この言葉は単なる道案内ではなく、ご自身が私たちの歩む道そのものであるという深い意味を持っています。人生の中で迷いや不安を感じる時も、どんなに辛い状況でも、私たちは確かに主イエスという広い道の上を歩んでいます。この道は幅広く、例えるなら幅100メートルもあるような安心して通れる道路のようです。時には私たちが迷い、逸れてしまったと感じても、主イエスの道の外に出ることは決してありません。主は「わたしという道はそれほど広い」と、変わらぬ愛で私たちに語りかけておられます。

 また、「私を通らなければ誰も父のもとに行くことができない」という言葉は、道が狭く限定されているように見えるかもしれません。しかし父なる神はこの世界を支配し、私たちを深く愛しておられるお方です。その父のもとに至る唯一の道である主イエスは、一本の道でありながらも果てしなく広く、深い愛の道なのです。

 弟子のトマスは主イエスの死を予感して「どこへ行かれるのか分からない」と不安を漏らしました。すると主は「あなたがたはすでに父を見た」と答え、信仰が弱く揺れても「あなたはわたしの中を歩いている」と励まし続けてくださいます。私たちの信仰がどんなにおぼつかなくても、主は決して私たちを見放さず、常に道の中にあることを約束してくださっているのです。

 またペトロは、主の言葉に驚きながらも自身の裏切りを知らされますが、主は「今はついて来ることはできないが、後でついて来る」と約束されました。最も遠ざかった時でさえ、ペトロは主の道の中にありました。私たちも同じように、どんなに罪深く弱くても、主は私たちを決して見捨てず、その広い道の中にしっかりと包み込んでくださいます。

 ドイツ・マイセンの磔刑像には、主イエスが両手を前に差し出し、「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」と刻まれています。十字架の死を通して、主は私たちすべてを自らのもとに招き、どんなに罪深い者であっても愛で包み込んでくださっているのです。

 私自身も子どもの頃、罪深さや死への恐れに苦しみましたが、父なる神の愛と主イエスの十字架の赦しを知り、心が軽くなりました。これからの罪さえも赦されていると信じ、今もこの広い主の道を歩んでいます。私たちはみな、この限りなく広い愛の道の中で生かされ、支えられているのです。

2025年8月3日
説教題 「心を騒がせてはならない」
聖書箇所 ヨハネによる福音書14章1~14節
説  教 安井 光 師

 「心を騒がせてはならない」。これは最後の晩餐の席でイエスが弟子たちに語られた言葉です。弟子たちはイエスから裏切りを予告されるとともに、イエスが自分たちの側からいなくなり、どこか遠くへ行ってしまうのではないかと思い(13:31∼38)、心を騒がせていたのです。想定外の状況に置かれると、私たちは心を騒がせてしまうものです。イエスは弟子たちに十字架の死と復活を予告してこられましたが、弟子たちはそれらのことを悟らずにいたのです。

 人は自分の計画が崩れ、目標が分からなくなると不安に陥ります。イエスは人間の不確かな計画ではなく、神の確かなご計画と目標に弟子たちを導こうとしておられました。そのためにエルサレムに上り、十字架で死のうとしておられました。それは弟子たちにとって想定外のことでしたが、イエスは弟子たちのために天に永遠の場所を用意されるとともに、多くの人がそこに至るための道となろうとしておられたのです(6節)。

 神は旧約の民に対して、ご自分の示す道を歩むように命じてこられました(申命記5:33)。それは彼らが幸いを得、命を得るためでした。イエス・キリストこそ、神がこの世にお与えになった真の命を得させる道なのです(ヨハネ3:16、6:40)。道は踏みつけれることによってできますが、イエスは人に踏みつけられるようにして十字架で死なれ、私たち罪人を滅びから救い、天の御国へと導き入れるただ一つの道となられたのです。

 私たちもイエスの弟子であります。私たちはイエスに従う者となり、今日を迎えています。信仰生涯においては心を騒がせることがあるでしょう。イエスがどこにおられるのか、また神の御心が分からなくなることがあります。トマスやフィリポが抱いたような問いや訴え(5、8節)が祈りとなりイエスに投げかけるでしょう。主が目の前におられ、耳に聞こえるように語りかけて下さるなら、満足できるのに…と思うことがあるかもしれません。主は私たちに御言葉と御業を示されるのです(9 ∼11節)。

 イエスは「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい」と私たち弟子たちに言われます。私たちはイエスの御言葉を信じ、十字架と復活の御業を信じ続けたいと思うのです。イエスは天の御国への道であるとともに、信仰の導き手として私たちと共に歩んでおられます。

2025年7月27日
説教題 「キリストが形づくられる」
聖書箇所 ガラテヤ人への手紙4章12~20節
説  教 安井 光 師

 聖書は、私たちが「神のかたち」として造られた者であると語っています。しかし罪によってこのかたちは損なわれました。神は御子イエス・キリストによって私たちを贖い、新しく造り変えてくださったのです(Ⅱコリント5:17)。今も神は、私たちの内に「キリストを形づくる」という恵みの御業を進めておられます。

 パウロはガラテヤの信徒に「私のようになってください」と呼びかけます。それは自分のように強く立派な人間になりなさいというのではなく、「キリストの恵みに留まり、信仰によって歩んでほしい」という願いからでした。パウロ自身、肉体の病を抱え、弱さを覚えながらも、キリストの恵みに生きていました。ガラテヤでの伝道のきっかけも、彼が病を患っていたことにありました(14節)。病により衰えた姿で語られた福音を、彼らは拒まず、むしろキリストのように迎え入れたのです(15節)。ガラテヤの信徒たちは、パウロの強さではなく、弱さの中に働くキリストの福音を信じて救われていたのです。

 パウロは第二コリント書12章7∼10節で、自らの弱さを「棘」と呼び、それを取り除いてくださいと主に何度も祈ったことを告白しています。主は「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ完全に現れる」と語られました。パウロはこの言葉を受けて、自分の弱さを誇りとし、主の力がその中に宿ることを喜びとするようにされたのです。

 私たちが救われたのは、強いからでも正しいからでもありません。むしろ、弱く、罪深い者だからこそ、恵みが注がれたのです。だからこそパウロは、「私のようになってください」と語るのです。それは、自分の力に頼らず、主の恵みに留まって生きること、自分の弱さの中にキリストの力が宿ることを受け入れることです。「キリストが形づくられる」とは、キリストが私たちのうちに住まわれ、私たちの存在を通してキリストご自身が現れてくださることです。私たちの外に現れるのは、自分の力ではなくキリストの力、恵みの輝きとなるでしょう。

 主は今も、私たちの内にキリストのかたちを築き続けておられます。パウロが産みの苦しみをもって願ったように、これはただの説教者の願いではなく、主ご自身の切なる思いです。主は私たちを神の子として形づくるために、十字架の苦しみを耐え抜かれました。私たちが試練や弱さの中にあっても、主の恵みと力は尽きることがありません。キリストが内に形づくられるために、私たちは自分の力に頼るのではなく、主の恵みに自らを明け渡してまいりましょう。

2025年7月20日
説教題 「新しい戒め」
聖書箇所 ヨハネによる福音書13章31~35節
説  教 安井 光 師

 イエスは十字架の死を目前にして、弟子たちに「新しい戒め」を与えられました。それは「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という戒めでした。これはイエスに従う者に与えられた愛の戒めであります

 愛することについては、律法にも命じられていました。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主なる神を愛しなさい」(申命記6:4∼5)とあり、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ19:18)と言われています。これらの戒めは、ユダヤ人が日々大切に唱えており、弟子たちも心に留めているものでした。イエスによる「新しい戒め」は、神を愛し隣人を愛する愛の戒めを具体化し、イエスご自身の愛によって完成させるものなのです。

「新しい戒め」の基準は、「私があなたがたを愛したように」と言われるイエスご自身の愛に置かれています。ペトロはイエスに忠誠を誓い(37節)、イエスを愛していましたがその愛は不完全でした(ヨハネ18:25∼27)。人間の愛には限界があります。しかしイエスはご自分を裏切るペトロを愛し抜かれます。「互いに愛し合いなさい」と言われるイエスの愛は、一方的ではなく互いにその愛を分かち合うことのできる愛なのです。イエスの十字架から出発し、新しい愛の道を進ませ、愛の交わりを保ち、愛の重荷を担わせるのです。愛の質そのものが全く新しいのです。

 イエスの愛は十字架にはっきりと示されています。それは、罪のただ中にいた私たちをも赦し、受け入れるという、無条件の愛です(ローマ5:8、ルカ23:34)。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という戒めは、「赦し合いなさい」という呼びかけでもあります。私たちが人間関係で直面する最も困難な問題は、自分を傷つけた相手を愛し赦すことでしょう。自分だけが愛して赦すのは不公平と思うかもしれません。しかしイエスご自身は、私たちの負い目を担い、愛をもって赦してくださったのです。

 「互いに愛し合いなさい」との戒めは、今を生きる私たちの教会に託された使命です。現代は分断と無関心が支配する時代です。そのような中で、教会が互いに愛し合い赦し合うならば、イエスの愛が生きた証として輝くことでしょう(35節、Ⅰヨハネ4:7∼11)。私たちは、ただイエスに愛された者として、イエスの愛に生きるように召されています。「私があなたがたを愛したように」と言われるイエスの十字架の愛に留まり、主の愛に応えて歩ませていただきましょう。

2025年7月13日
説教題 「人生の主導権」
聖書箇所 マルコによる福音書10章17~31節
説  教 安井 直子 師

 皆さんに問いかけたいと思います。静かな時間の中で、心に繰り返し浮かんでくるものは何でしょうか。それは、あなたの人生において本当に大切なことでしょうか。

 その思いが何であれ、私たちが人生の中心に据えているものが、神ではなく他の何かであるならば、私たちは知らず知らずのうちに、自分やこの世の力に主導権を明け渡しているかもしれません

 今日の聖書箇所では、裕福で信仰深い一人の男性が、イエスのもとに走り寄り、「永遠の命を得るには何をすればよいか」と尋ねます。彼は「何をすれば」と問い、自分の行いによって救いを得ようと考えていました。しかしイエスは「善い方は神だけ」と返され、まず神に目を向けるよう促されます。

 さらにイエスは律法を挙げられ、彼は「それはすべて守ってきた」と答えます。けれども彼の心には、なお「救いへの不安」が残っていました。イエスは彼を愛をもって見つめ、「持ち物を売って貧しい人に与え、私に従いなさい」と語られます。彼は悲しみながら立ち去りました。なぜなら、財産こそが彼の支えであり、主導権を握っていたのが神ではなく富だったからです。

 イエスは弟子たちに、「財産のある者が神の国に入るのは難しい」と語られます。それは「神に従うことの難しさ」を強調するものでした。弟子たちは驚き、「それでは誰が救われるのか」と問います。イエスは答えられました。「人にはできないが、神にはできる」と。これは、救いは人の力ではなく、神の恵みによって与えられるという、福音の中心です。

 ペテロは「私たちはすべてを捨てて従ってきました」と告白します。イエスはその信仰に応え、「神のために捨てた者には、百倍の報いと永遠の命が与えられる」と約束されました。しかし同時に、「先の者が後になり、後の者が先になる」とも語られます。それは、外面的な信仰ではなく、真心からの神への信頼と従順が求められるということです。

 今、私たちの人生の主導権は誰の手にあるでしょうか。自分自身や、仕事、家庭、財産に握られてはいないでしょうか。イエスは今日も語られます。「あなたが握っているものを手放して、私に従いなさい」と。「人にはできないが、神にはできる。」この約束を信じて、人生の主導権を神に明け渡す歩みを共に始めましょう。

2025年7月6日
説教題 「イエスを裏切る者」
聖書箇所 ヨハネによる福音書13章21~30、36~38節
説  教 安井 光 師

 最後の晩餐の席で、イエスは弟子の一人が自分を裏切ると予告されました。驚いた弟子たちは互いに顔を見合わせ、「まさか自分ではないだろう」と動揺します。ペトロがそばにいたヨハネに合図し、「誰のことですか」と尋ねさせたところ、イエスはパンをユダに渡し、それが裏切りのしるしであることを示されました。ユダは既に祭司長たちと手を組み、イエスを銀貨三十枚で売り渡す計画を進めていたのです(マタイ26:14)。

 私たちはユダこそ裏切り者だと理解します。しかし裏切ったのはユダだけではありません。ペトロもまた、イエスに「命を捨てても従う」と誓いながら、三度も「知らない」と否定しました。他の弟子たちも、イエスが捕らえられると逃げ去り、主を見捨てたのです。皆、言葉では忠実を誓いながら、行動では裏切ってしまったのです。これは私たち自身の姿でもあります。信仰を語ることをためらい、神よりも自分の力や感情を優先してしまうとき、私たちもまた主を裏切っているのです。

 けれども主イエスは、裏切る者たちをも愛されました。ユダやペトロを含め、すべての弟子の足を洗い、最後まで彼らを見捨てず、愛し抜かれたのです(ヨハネ13:1)。イザヤ53章は、十字架の苦しみの預言として知られています。「彼は侮られて人に捨てられ…彼は多くの人の過ちを担い、背く者のために執り成しをした」とあるように、イエスは裏切る者たちの罪さえも背負って十字架に向い、贖いをなされたのです。

 ユダは自分の罪を悔いて銀貨を返しましたが、赦しを受け入れることができず、自分で自分を罰してしまいます。彼は誠実で責任感があったかもしれませんが、神の憐れみに身を委ねることはできませんでした。一方、ペトロはイエスを否んだ自分の罪に打ちのめされ、涙を流して悔い改めました。イエスは三度「私を愛するか」とペトロに問われ、彼の罪を赦し、主の恵みの証人として新たに立ち上がらせたのです(ヨハネ21章)。

 私たちも知らず知らずのうちに主を否んでしまうことがあります。主はそんな私たちをも見捨てず、立ち返る者を受け入れてくださいます。大切なのは、「裏切らない」と誓うことではなく、裏切ってしまう弱さと罪を認め、主に寄りすがることです。私たちはいつでも主のもとに立ち返ることができます。たとえ何度失敗しても、主は愛と赦しをもって私たちを迎えてくださいます。だからこそ、私たちも砕かれた心で主に近づき、主の憐れみに生きる者として、希望をもって歩んでまいりましょう

2025年6月29日
説教題 「自分の心を守る」
聖書箇所 箴言4章20~23節
説  教 安井 直子 師

現代社会では、私たちの目や耳に日々膨大な情報が流れ込みます。ニュース、SNS、他人の言葉や視線など、意識しないうちに多くの「声」にさらされ、それが心にプレッシャーや不安をもたらします。「もっと頑張らないと」「認められるにはこうすべきだ」といった声に振り回され、心が疲れ果ててしまうこともあるのです。

 そんな時代にあって、どこに目を向け、どんな声を聞くべきか。箴言4章20~23節にはその答えがあります。この御言葉には、心が人生の源であることを教えています。言葉も行動も決断もすべては心から生まれます。心が乱れれば生き方全体が歪み、心が整えば困難な状況でも平安のうちに歩むことができます。

 私たちは体の健康のためには努力を惜しみませんが、心の健康については後回しになりがちです。しかし心の乱れは、やがて不満や怒り、孤立を生み、より深い苦しみにつながります。一方で、心が神によって整えられるとき、感謝と希望に満たされ、人間関係にも良い影響が現れます。

 では、どうすれば心を守れるのでしょうか。それは神との関係に生きること、すなわち信仰の基本に立ち返ることです。日々御言葉を読み、祈り、神の言葉を心に刻むこと。それが心の健康を保つ最良の方法です。ヨハネ7:38では、イエスが「私を信じる者は、その人の内から生ける水が川のように流れ出る」と語られました。信仰によって潤された心は、愛や希望、平安、赦しを他者にも注ぐ源となります

 箴言は、御言葉を心に蓄えることの重要性も教えています。単に読むだけでなく、それを生活の中で実行し、生きた信仰として表すことが、心の力を養うのです。御言葉は私たちの魂を癒し、体をも健やかにすると約束されています

 実際、私自身が家族の病を通して不安に陥った時、この御言葉によって心を整えられ、神の平安を再び経験しました。神は私たちの心の状態をよくご存じで、必要な助けを備えておられます

 だからこそ「心を守ること」を最優先とし、神の御言葉に生きる者となりましょう。そうすれば、私たちの人生には命と祝福が溢れ、体も心も主によって支えられていくのです。「守るべきものすべてにも増して、あなたの心を保て。命はそこから来る」(箴言4:23)。この御言葉を心にとめて、神と共に歩んでいきましょう。

2025年6月22日
説教題 「それでも私は主を賛美する」
聖書箇所 詩編42編6~7節
説  教 安井 光 師

 賛美は、私たち信仰者にとって欠かせない営みです。礼拝や集会での賛美にとどまらず、日々の生活の中でも主を賛美することが大事です。賛美とは、私たちの言葉や態度に現れる神への感謝と信頼とも言えるでしょう。しかし心が沈み、祈っても応えが感じられない時、賛美するのが難しいこともあります。詩編42編は、そのような苦しみと呻きの中にある一人の信仰者が、なおも神を求め、神を賛美する信仰の詩です。

 この詩人は、神殿での礼拝を思い出しながら、神への渇きを「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように」と表現します(2節)。生ける神との交わりを切に求めているのです。しかし現実には、彼の魂は「打ち沈み」「呻いて」います(6節)。彼は自分の魂に「なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか」と問いかけ、苦しみの中で自分を見失わず、信仰の視点から自らを見つめ直しています

 詩人は、「神を待ち望め」と自分に言い聞かせます。神を待ち望むとは、現実がすぐに変わらなくても、神の時を信じて希望を持つことです。祈っても応えが感じられない時にも祈り続け、御言葉にとどまり、礼拝を守り、教会の交わりに身を置き続けること、それが「神を待ち望む」信仰の実践でしょう。静かで地味な行動に見えるかもしれませんが、そこにこそ大きな力があります

 「私はなお、神をほめたたえる」(7節)。詩人は、まだ苦しみの中にいます。問題は解決していません。けれども詩人は、意志をもって神を賛美することを選び取ります。賛美は感情だけでなされるものではありません。むしろ、打ち沈んだ時、呻きの中で「主よ、あなたは真実です」と告白するその賛美こそ、最も深い賛美であり、最も力ある賛美なのです

 パウロとシラスは獄中で賛美をささげました(使徒16:25)。鞭打たれ、投獄された彼らが、嘆く代わりに祈りと賛美をささげた時、他の囚人たちはその賛美に耳を傾けました。苦しみのただ中で神を賛美する姿こそ、人々の心を動かす証しとなるのです

 詩人は「御顔こそ、わが救い」と告白します。神の御顔、それは神の臨在、愛と顧みの象徴です。状況がどうあれ、神が共にいてくださる、その事実が私たちの救いなのです。神の御顔が私たちに向けられているという確信から、魂の呻きが賛美へと変えられるのです。私たちも、神を待ち望み、祈り、御言葉にとどまり、礼拝を続けましょう。御顔こそ、私たちの救いです。神が共にいてくださることを信じて、呻きの中にあっても、なお主を賛美する者でありたく願います。

2025年6月15日
説教題 「究極の愛」
聖書箇所 ヨハネによる福音書13章1~20節
説  教 安井 光 師

 この箇所は、イエスが弟子たちの足を洗われた「洗足」の場面です。通常、足を洗うのは僕の仕事であり、師であるイエスが弟子たちの足を洗うというのは考えられないことでした。しかしイエスは自ら上着を脱ぎ、手拭いを腰に巻き、水を汲んで弟子たちの足を一人ひとり洗われました。この行為は、イエスが弟子たちを「最後まで愛し抜く」という究極の愛を示すものでした。

 イエスに足を洗ってもらうの拒んだペトロに対し、イエスは「もし私があなたを洗わなければ、あなたは私と関わりがなくなる」と言われました。イエスによる洗足は、イエスと弟子たちの深い交わりと愛を証しするものでした。イエスは十字架で流される血をもって、弟子たちの罪を赦し清められるのです。

 御子イエスの血は、あらゆる罪から私たちを清めます(Ⅰヨハネ1:7)。しかし自分に罪がないと言うなら、その人は真理を知らず、イエスの赦しと愛を拒むことになるのです。私たちは自分の力で罪を清めることはできません。だからこそ、イエスに足を洗っていただき、十字架の贖いを信じ受け入れる必要があるのです。

 イエスは弟子たちに「私があなたがたにしたように、互いに足を洗い合いなさい」と命じられました。これは単なる謙遜の模範ではなく、互いに愛し、赦し合うことの大切さを示しています。イエスの愛と赦しを経験しなければ、他者を愛し赦すことはできません。イエスが私たちを愛し、罪を赦してくださるからこそ、私たちは互いに愛し合い、赦し合うことができるのです。

 ペトロはイエスを「知らない」と三度否定しましたが、イエスはペトロを愛し抜かれ、復活後にご自身の羊の群れ(教会)を託されました(ヨハネ21:15∼19)。これこそ究極の愛の証しです。ペトロ自身もこの愛を信じて変えられたのです。

 ペトロはイエスの究極の愛を信じる者たちに、「あなたがたは聖なる者として召されている」と語ります(Ⅰペトロ1:13∼22)。私たちはイエスの十字架の血によって清められ、聖なる者とされました。だからこそ「互いに心から熱く愛し合いなさい」と勧めています。イエスの洗足と十字架の愛がペトロを変えたように、私たちもイエスの愛に生かされて兄弟愛を実践することが求められています。

 イエスの愛は究極の愛であり、イエスはすべての人にこの愛を受け入れてほしいと願っておられます。イエスに足を洗われ、十字架で罪を赦された者として、私たちはこの愛に生き、互いに愛し赦し合う者となりましょう。

2025年6月8日
説教題 「心を一つにして」
聖書箇所 使徒言行録2章1~4、37~47節
説  教 安井 直子 師

 キリスト教の三大祝日は、クリスマス(イエスの誕生)、イースター(復活)、そしてペンテコステ(聖霊降臨日)です。ペンテコステとは「五十日目」という意味で、イエスの復活から50日後、昇天から10日後にあたります。この日、弟子たちに約束の聖霊が降り、教会が誕生したことを記念します。つまり、ペンテコステは「教会の誕生日」でもあるのです。

 使徒言行録には、弟子たちがイエスの言葉に従い、聖霊を祈り求めて一つ心で待っていた様子が描かれています。そして五旬祭の日、激しい風のような音が天から響き、炎のような舌が分かれて弟子たち一人ひとりの上にとどまり、彼らは聖霊に満たされました。すると、聖霊の導きによって彼らはさまざまな国の言葉で語り出したのです。

 この日、世界各地から巡礼者がエルサレムに集まっていましたが、誰もが自分の言葉で「イエスの十字架と復活」の福音を聞き、驚きました。福音が全ての国の人々に与えられていることが、聖霊を通して示されたのです。聖霊は、かつてイエスの死を恐れて逃げた弟子たちを大胆な証人へと変えました。ペトロは十一人と共に立ち、イエスこそ救い主であると力強く語り、その結果、三千人が悔い改め、洗礼を受けました。これが教会のはじまりです。

 教会という言葉は建物を指すのではなく、「エクレシア(呼び出された者の集い)」という意味です。神に召され、信仰によって集められた者たちの群れ、それが教会です

 初代教会の姿は、使徒言行録2章42節に要約されています。第一に「使徒の教えを守る」こと。イエスの言葉に従い、信仰の土台を築いていました。第二に「交わりを持つ」こと。物や時間、喜びや悲しみを分かち合い、互いを支え合う関係がありました。第三に「パンを裂く」こと。これは聖餐を意味し、十字架の恵みを覚えて神に礼拝をささげていました。第四に「祈る」こと。彼らは心を合わせて祈り、神に全てを委ねて生きていたのです。

 教会に与えられた祝福の中心には、罪の赦しと聖霊の賜物があります(2:38)。これは当時の弟子たちだけでなく、今を生きる私たちにも与えられた神の約束です。聖霊は今も働き、信じる者を一致させ、恐れを力に変えてくださいます。

 私たちもまた、イエスを頭とした「一つのからだ」として召されています。心を一つにし、主を礼拝し、祈り合い、互いに愛し合いながら、聖霊に導かれて歩んでいきましょう。そして、まだイエスを知らない人々にも、福音を伝えていく群れとなりましょう。

2025年6月1日
説教題 「救い主イエスを信じよう」
聖書箇所 ヨハネによる福音書12章44~50節
説  教 安井 光 師

 イエスは十字架の死を目前にして、最後のメッセージを群衆に語られました。イエスはこれまでの宣教を通して、神はどのような方か、神の御心は何かを示されました。

 ユダヤ人たちは、アブラハムやモーセの子孫であることを誇り、律法に従うことが救いだと考えましたが、実際は神から離れた生活をしていました。その現実に気づき、真理と救いを求める人々もいました。神はそうした人々のために、独り子イエスを救い主として世に遣わされたのです。

 「私を見る者は、私をお遣わしになった方を見る」とイエスは言われます。イエスを見れば神の御心がわかるのです。イエスの教えは父なる神からのものだったのです。イエスの行いも神の御心を実行するものでした。安息日に病気の人を癒した出来事(ヨハネ5章)では、神が安息日を設けた目的を示し、イエスこそが世に真の安息をもたらす救い主であることを明らかにするものでした。

 神の御心は、イエスを信じる者が永遠の命を得ることです(ヨハネ6:38∼40、3:16∼17)。神は世を裁くためではなく、世を救うために御子を遣わされたのです。ユダヤ人たちは律法を守ることで神に認められようとしていましたが、それはできないことでした。律法の表面的な遵守に終わり、偽善がはびこっていたのです。神に義と認められるのは、罪を認めて悔い改める者なのです(ルカ18:9∼)。

 イエスが示された神は、憐れみ深く罪人を愛する天の父です。放蕩息子の父親のように、罪を犯した者を待ち受け、赦し、抱きしめる父の姿がイエスの言葉と行動に表れています(ヨハネ8:1∼、9:1∼)。イエスの言葉を完全に守れなくても、イエスはそのことで私たちを裁かないのです。イエスの教えは、律法の完全な遵守を強いるのではなく、信仰によって義とされることを示しています。善行を積んでも永遠の命は得られないのです(マタイ19:16∼)。イエスが永遠の命を与える救い主であり、信じる者にその命を得させるのです。

 ヨハネ福音書のメッセージの核心は、イエスを救い主と信じ永遠の命を持つことです。日本では「神を信じる」という人がいても、多くは八百万の神々を信じる多神教的な信仰です。しかしイエスは「私を信じる者」を求められました。イエスを信じる者は命の光(永遠の命)に生かされ、闇の中を歩かないのです(ヨハネ8:12、12:36)。私たちは救い主イエスを信じ、神の愛と憐れみに応えたいと思います。イエスの御言葉に聴き従い、光の中を歩ませていただきましょう。