過去の礼拝メッセージの音声を配信をしています。

2026年2月1日
説教題 「二つの告白」
聖書箇所 ヨハネによる福音書18章12~27節
説  教 安井 光 師


2026年1月25日
説教題 「ヨシュアの任命」
聖書箇所 ヨシュア記1章1~9節
説  教 安井 光 師

 荒野の旅が終わり、遂にイスラエルの民は約束の地カナンの前まで来ました。ところが、民の指導者モーセはカナンに入る前に生涯を閉じたのです(申命記34:1-8)。モーセの労苦を思うと、彼がカナンに足を踏み入れることができなかったのは無念だったでしょう。でもモーセはとても幸せでした。モーセは神からの務めを忠実に果たしました。モーセの目は、カナンよりも素晴らしい天の故郷に向けられていたのです(ヘブライ11:13-16)。

 神はヨシュアをモーセの後継者として立てられました。ヨシュア(「主は救い」の意)は、モーセの従者として長く仕えてきました(出エジプト17章、民数記13-14章)。神はご計画によってヨシュアを選び、モーセに代わるイスラエルの導き手として育てておられたのです。ヨシュアは新しい指導者として、イスラエルをカナンに導いていくのです。働きはモーセからヨシュアにバトンタッチされましたが、神がイスラエルに与えられた約束(目標)もそのまま継承されたのです。

 ヨシュアは、課せられた責務の重さに恐れと不安を抱いたことでしょう。神はヨシュアを励まされ、勇気付けられました。神はヨシュアに対し、先祖たちに約束されたカナンの地を与えると語られました。モーセに約束したように与えると言われたのです。神はイスラエルのためにカナンの地を与えようと待ち構えておられ、彼らがそこに足を踏み入れさせすれば得られる。既に与えておられるのだから、信仰をもって進み、足で踏みしめてその地を自分のものにするように言われたのです(2∼4節)。

 カナンには大きな民・強い民が大勢いました。敵との戦いが待ち受けていました。自分の力でその地を勝ち取りなさいと、主は言われたのではありません。「私がモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない」と約束されたのです。モーセは偉大な指導者でしたが、彼が偉大だったからではなく、神が彼と共におられたので偉大な働きがなされたのです。ヨシュアの場合もそうなのです。

 「強く、雄々しくあれ…うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行っても、あなたの神、主があなたと共にいるからだ」。ヨシュアにこう語られた主なる神が、私たちと共におられるのです。信仰生涯にはさまざまな戦いがありますが、主が共にて私たちを支え、守り、助けて下さるのです。主の御言葉の約束を信じ、目標を目ざして前進してまいりましょう。


2026年1月18日
説教題 「剣ではなく杯を」
聖書箇所 ヨハネによる福音書18章1~11節
説  教 安井 光 師

 イエスが弟子たちと共にゲッセマネの園におられた夜、ユダに導かれた兵士や下役たちが、松明と武器を手にして主を捕らえに来ました。イエスは少しも動揺されませんでした。「ご自分の身に起こることを何もかも知っておられた」からです。主は、ユダの裏切り、苦しみ、十字架の死、弟子たちが散らされること、そして復活に至るまでを前もって知り、それらを受け入れておられました。それは単なる予知ではなく、父なる神の御心にゆだねる姿勢でした。

 ゲッセマネの園で主は、「この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈られましたが、「私の思いのままではなく、御心のままに」と祈られました(マタイ26:39、42)。イエスは父がお与えになる十字架の杯を飲む決断をされたのです。そのとき主の心には平安が与えられ、暴挙と悪意に満ちた者たちの前に毅然と立つことができました。私たちは将来のことを知りませんが、主はすべてをご存じです。だからこそ、神の計画が災いではなく、平安と希望を与えるものであると信じ、主に委ねることができるのです(エレミヤ29:11、ローマ8:28)。

 イエスは逃げ隠れすることなく自ら進み出て、「誰を捜しているのか」と問い、「私である」と答えられました。この「エゴー・エイミ」という言葉は、永遠なる神ご自身を示す表現です。その言葉に圧倒され、主を捕らえようとした者たちは後ずさりして地に倒れました。イエスこそ、この出来事を支配しておられるお方でした。主は、ご自分を捕らえようとする一団の中にあって、弟子たちを守るため、自ら盾となって彼らを去らせようとされました。主は良い羊飼いとして、羊である弟子たちのために命を捨てられるのです。

 ペトロは剣を抜き、必死に主を守ろうとしました。しかしイエスは、「剣を鞘に納めなさい。父がお与えになった杯を、飲むべきではないか」と言われました。ここで言われる剣とは、武力だけでなく、自分中心の思いや力を意味します。主はそれを取らず、神の救いのご計画という杯を選ばれました。神の救いは、人の剣によって勝ち取られるものではなく、神の御心を受け入れることによって実現するのです。

 イエスは十字架の杯を飲み干され、罪と死と悪魔に対する勝利を成し遂げられました。私たちは試練や困難に直面しても、剣を振り回す必要はありません。主が私たちを守り、すでに勝利しておられるからです。自分の力や思いに頼るのではなく、すべてを知っておられる主に信頼し、主にお任せしつつ歩んでまいりましょう。


2026年1月11日
説教題 「大牧者イエスの祈り」
聖書箇所 ヨハネによる福音書17章1~26節
説  教 安井 光 師

 ヨハネ17章は、主イエスが十字架を前にして弟子たちのためにささげられた祈りです。主が説教の後に祈られたように、この祈りは私たちのための執り成しの祈りであり、まことの大祭司、大牧者としての祈りです。その内容は三つに分けることができます。

 第一に、主イエスは永遠の命を与えるために祈られました(1∼5節)。主は天を仰ぎ、「父よ」と親しく呼びかけ、御自身を通して神の栄光が現されることを願われます。その栄光は、十字架という人間の目には敗北に見える出来事を通して、神がどれほど深い愛をもって罪人を救おうとしておられるかが示されることでした。神は御子を信じる者に永遠の命を与えると約束されました(ヨハネ3:16)。永遠の命とは、ただ死後に続く命ではなく、まことの神とイエス・キリストを「知る」、すなわち愛と信頼の交わりの中に生きる命です。主イエスはその命を与えるために御業を行い、ついに十字架と復活によって神の栄光を現されたのです。

 第二に、主イエスは弟子たちを守り、聖別するために祈られました(6∼19節)。弟子たちは世から選ばれ、神の御名を示された者たちでした。主は、御自身が去った後に弟子たちが苦難や迫害に遭うことを知りつつ、「悪い者から守ってください」と父なる神に願われます。同時に、「真理によって彼らを聖別してください」と祈られました。聖別とは特別な存在になることではなく、神のために生きる者として選び分けられることです。この祈りは、主に贖われたすべてのクリスチャン一人一人に向けられています(テトス2:14、Ⅰペトロ2:9∼10)。

 第三に、主イエスは教会の一致のために祈られました。弟子たちの宣教を通して主を信じるようになる人々、すなわち全世界の教会が一つとなることを願われたのです(20∼26節)。その一致とは、考えや性格が同じになることではなく、同じ主を見上げ、同じ愛に生きることによる一致です。私たちは聖霊によって結ばれた一つの体、キリストの体として生かされています。主イエスの心を我が心とし、互いに愛し合うとき、教会は一つとされます(ヨハネ13:35、フィリピ2:1∼5)。

 この祈りは、今を生きる私たちのための祈りです。主は試練のない人生を約束されたのではなく、困難の中でも守られ、支えられ、主の証人として生きることができるように祈られました。大牧者イエスは今も天において私たちのために祈っておられます。その祈りに支えられ、この週も歩ませていただきましょう。


2026年1月4日
説教題 「私の家は祈りの家」
聖書箇所 マルコによる福音書11章15~18節
説  教 安井 直子 師

 イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城されたとき、人々は棕櫚の枝を敷き、「ホサナ」と歓声を上げて迎えました。人々は自分たちを救う王としてイエスに期待し、熱狂して迎えたのです。しかしその翌日、イエスがなさったことは人々の期待とはまったく異なるものでした。

 イエスは弟子たちと共に神殿に行き、まず「異邦人の庭」に足を踏み入れられました。そこは、神を慕い求める異邦人が唯一祈ることを許された大切な場所でした。しかし、その場所は本来の祈りの場としての姿を失い、動物を売る者や両替人であふれ、市場のような騒がしさに満ちていました。礼拝のための制度が、人々の信仰心につけ込んだ不正な商売の場へと変わり、祭司たちまでもが利益に関わっていたのです。

 祈りを求めて集った人々、特に異邦人たちは、静かに神と向き合うことすらできませんでした。その光景を前に、イエスは売り買いをする者たちを追い出し、両替人の台を倒されました。そしてイザヤ書の言葉を引用し、「『私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」(17)と厳しく語られたのです。

 イエスは商売や犠牲制度そのものを否定されたのではありません。それらが神を礼拝するという本来の目的を失い、人間の欲のために用いられている現実を正されたのです。特に、「すべての民の祈りの家」という言葉には、神の救いがすべての人に開かれているという大きなご計画が示されています。その祈りの場が奪われていることに、イエスは深い悲しみと怒りをもって立ち向かわれました。

 この出来事は、私たち自身への問いかけでもあります。教会は、特別な人のための場所ではなく、誰もが神の前に招かれる祈りの家です。しかし私たちもまた、知らず知らずのうちに、教会を「自分たちの居心地のよい場所」にしてしまってはいないでしょうか。弱さを抱える人、初めて来る人が、心から祈れる場となっているでしょうか。

 イエスが神殿を清められたのは、人を遠ざけるためではなく、神のもとへと近づけるためでした。今も主イエスは私たちを招いておられます。「私の家は、すべての民の祈りの家」。この御言葉に応え、新しい年も私たちは共に祈り、共に歩んで参りましょう。


2026年1月1日
説教題 「あなたがたは私の証人」
聖書箇所 イザヤ書43章10~12節
説  教 安井 光 師


2025年12月28日
説教題 「神が備えられた救い」
聖書箇所 民数記21章4~9節
説  教 安井 光 師

 イスラエルの民は、約束の地カナンに入るまで40年間荒野での旅路を続けました。世代が替わり、若い人々が大多数を占めるようになっていましたが、彼らはカナンに向かう荒野の道が途中で耐えきれなくなり、神に向かって呟いたのです(4∼5節)。この呟きは、かつてエジプトから救い出されて程なくして、イスラエルの民から発せられた呟きと同じものでした(出エジプト16:2∼3)。イスラエルの民はメリバ(「争い」の意)において飲み水が無くなったことで呟いたことがありました(20:2∼、出エジプト17:1∼)。世代は替わっていましたが、出エジプト直後もカナン入国前も神に呟く性質は全然変わっていなかったのです。

 イスラエルの民の姿は、私たち人間の姿・信仰者の姿を表わしています。神の恵みを受け、神の守りの中に歩みながらも、思うようにいかないことがあるとすぐ呟いてしまう。約束の場所を目指し人生の旅路を進む中で、困難や問題が起り、道を進むのが苦しく堪えがたくなると、神を呪い、人生を呪うような言葉を吐いてしまう。このようなことは、イスラエルの民に限られたことではなく、すべての人に当てはまります。「呟き」とは、神への疑いの思い、不信仰から出てきます。ただ神を意識して呟いているわけではなく、むしろ無自覚・無意識のうちに独り言を言うように呟いてしまうのではないでしょうか。

 神はイスラエルの呟きに対して怒りを発せられました。蛇を民の中に送り、彼らを打たれました(6節)。民は罪を悔い改め、モーセは神に執り成しの祈りをささげました。神は民のために救いを備えられました。青銅の蛇を造ってそれを竿の先にかけ、それを仰ぎ見た者は死を免れて生きることができたのです(7∼9節)。神は私たちのためにも救いの道を備えてくださいました。それはイエス・キリストの十字架による贖いです。モーセが荒野で青銅の蛇を上げたように、神は御子イエスを十字架で私たちの罪の犠牲として上げられたのです。御子を信じる者は滅びないで永遠の命を得るという救いを神は備えてくださったのです(ヨハネ3:14∼16)。

 私たちは主イエスの十字架を信じ仰いで救われました。信仰生活の中心に十字架がなければなりません。荒野(試練)を通り、耐えきれなくなる時に俯いて呟くのではなく、主イエスの十字架を仰ぎ見る必要があるのです。主は私たちの進む信仰の道のりにおいて常に十字架を掲げておられ、これを仰ぎ望め、私があなたを救う者だと言って導かれるのです。


2025年12月21日
説教題 「グッドニュース」
聖書箇所 ルカによる福音書2章1節~21節
説  教 安井 光 師

 クリスマスは、「神に栄光、地には平和」と、神の愛と救いが示された出来事です。それは「すべての人に与えられた大きな喜び」、グッドニュースです

 主イエスは、ローマ帝国の住民登録という歴史の動きの中で、ベツレヘムにお生まれになりました。ヨセフは身重のマリアを伴って旅をし、ベツレヘムに到着しますが、泊まる場所がなく家畜小屋で出産します。救い主の誕生は、決して華やかでも祝福に満ちた環境でもありませんでした。しかしその幼子こそ、旧約聖書を通して神が約束してこられたメシアでした

 天使は「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げました。これは特定の誰かではなく、私たち一人一人のための出来事です。神の約束が、現実の出来事として成就したのです(マタイ1:22∼23)。クリスマスとは、神ご自身が私たちのもとを訪れ、共に生きるために来てくださった日なのです(ヨハネ1:14)。救い主は、私たちの罪と苦しみを知り、それを喜びへと変えるために来られたのです。

 救い主誕生の知らせが最初に告げられたのは羊飼いたちでした。彼らは人口調査の対象にもならず、人々から蔑まれる存在でした。神は彼らを最初の証人として選ばれました。天使が告げた知らせは「大きな喜び」であり、「すべての民のため」のものでした。福音とは、特別な人のためのものではなく、すべての人に開かれた喜びの知らせなのです。

 現代の世界にも、戦争や経済不安、災害など、暗いニュースがあふれています。人の心は、良い知らせよりも悪い知らせに引きずられやすいものです。しかし、「救い主がお生まれになった」という知らせは、どのようなマイナスの力にも打ち消されることのない喜びです。まことの喜びは、天から与えられるのです。神が御子を私たちに与えてくださったことこそ、揺るがない喜びの源なのです。

 羊飼いたちはこの良き知らせを聞き、実際に救い主に会いに行き、飼葉桶に寝かされた幼子イエスを見ました。彼らは与えられた喜びを人々に知らせました。喜びは受け取ってこそ自分のものとなり、内にとどまらず外へと溢れ出ていきます。伝道もまた、この喜びを他者に分かち合うものなのです。

 羊飼いたちは、救い主に出会った後、元の生活に戻り、神をあがめ、賛美しながら歩み続けました。神は私たちにも同じ「大きな喜び」を与えてくださっています。救い主イエスを心に迎え、この喜びに生き、その喜びが周囲の人々へと広がっていくことを心から願います



2025年12月14日
説教題 「子ロバに乗るイエス」
聖書箇所 マルコによる福音書11章1~11節
説  教 安井 直子 師


 アドベント第三週主日において、イエス・キリストがどのような救い主として来られたのかを、エルサレム入城の出来事から学びましょう。アドベントは単にクリスマスを待つ期間ではなく、神が約束された救いがどのように実現し、今も私たちの人生に働いているのかを覚え、心を整える時であることが語られます。

 イエスはエルサレムを目前にし、二人の弟子を遣わして子ろばを用意させました。「主がお入り用なのです」という言葉通り、弟子たちが行くと、すべてはイエスの言われた通りに進みます。この出来事は、救いのご計画が偶然ではなく、神の確かな導きの中で進められていることを示しています。主が必要とされる時、人の心は動かされ、御業は備えられていくのです。

 イエスが子ろばに乗って入城された姿は、ゼカリヤ書に預言された「謙遜な王」の成就でした。王であるなら軍馬に乗るのが常識である中、イエスは力や武力ではなく、へりくだりと従順をもって来られました。ここで示される謙遜とは、弱さではなく、神の御心に自らを委ねる姿勢です。イエスは、人を支配する王ではなく、愛によって導く王として来られたのです。

 群衆は「ホサナ」と叫び、イエスを歓迎しましたが、その期待はローマの支配を打ち破る政治的救いに向けられていました。しかしイエスがもたらす救いは、外側の問題を力で解決することではなく、罪からの解放と神との和解という、より根源的なものでした。人々の期待はやがて失望へと変わりますが、神の救いの計画は人の思いに左右されることなく進められていきます。

 イエスは十字架に向かい、私たちの罪を背負って死なれ、復活によって永遠の命への道を開かれました。これは、外側の状況が変わる前に、まず人の心を変える平和であり、神との断絶を回復する真の平和です。この平和は、力ではなく、愛の犠牲によって成し遂げられました。

 さらに「主がお入り用なのです」という言葉は、子ろばのような小さな存在をも主が用いられることを示しています。イエスは今も、私たち一人ひとりを御業のために招いておられます。アドベントは、自分自身を主に献げ、「どうぞお用いください」と応答する時です。謙遜な王イエスを心に迎え、平和を運ぶ者として歩むことへと、私たちは招かれているのです。


2025年12月7日
説教題 「喜びに変わる」
聖書箇所 ヨハネによる福音書16章16節~33節
説  教 安井 光 師

 イエスは「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなる」と語られ、十字架の死を予告されました。弟子たちは、実際にイエスが死なれた時、深く泣き悲しむこととなります。しかしイエスは「あなたがたの悲しみは喜びに変わる」と約束されました。それはイエスが復活され、再び弟子たちの前に現れられるからでした(ヨハネ20:20)。弟子たちの悲しみも、主の復活の命によって喜びに変わるのです。

 さらにイエスは、出産の痛みを用いて語られます(21節)。陣痛の苦しみは激しく逃れられないものですが、子どもの誕生の瞬間、その痛みは大きな喜びに包まれます。弟子たちも迫害や孤独、喪失に苦しみますが、その苦しみは無意味ではなく、主が備える喜びへとつながるのです。

 「私は再びあなたがたと会う」との言葉には、復活の主に会う約束と、再臨の主に会う約束の両方が含まれています。使徒パウロもこの希望を抱き、「主にあっていつも喜びなさい。…主は近い」と語りました(フィリピ4:4∼5)。主の再臨の約束は、どんな状況にあっても喜びを失わない力となります。

 イエスはまた、弟子たちがご自身の名によって父なる神に祈るよう導かれました(23節)。私たちは聖霊が与えられ、真心から「天のお父さま」と呼び、イエスの名によって願う者とされています。その祈りに神は答えてくださり、私たちはすでにこの世にあって喜びを経験できるとイエスは約束しておられるのです。

 弟子たちはこの時、まだイエスの語る意味を理解できず、やがて散らされ、イエスを残して逃げ去ります(32節)。しかしイエスは「私は独りではない。父が共にいてくださる」と言われ、十字架の苦しみの中でも神の平安を得ておられました。イエスは私たちが神と和解し平和を得ることを願い、十字架で命をささげてくださったのです。

 イエスは「あなたがたは世では苦難がある」と言われます。私たちもこの世で悲しみや試練を避けることはできません。しかしイエスは「勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」と宣言されます。復活の勝利こそ、私たちの悲しみが喜びに変えられる根拠です。

 イエスの語る「しばらくすると」「その日に」とは、神の時間を指します。悲しみも苦しみも永遠ではなく、必ず終わりがあり、主が喜びに変えてくださるのです。暗い夜にも夜明けが来るように、主は闇を照らし、私たちを喜びへ導かれます。主の約束を信じて歩みましょう。

2025年11月30日
説教題 「メシア預言」
聖書箇所 ゼカリヤ書9章9~10節
説  教 安井 直子 師

 アドベント第一主日を迎えました。アドベントは「到来」「現れ」を意味し、私たちの救い主イエス・キリストが来てくださったことを思い起こしつつ、再び来られる主を待ち望む時です。今日の聖書箇所はゼカリヤ書9章9–10節に記された「メシア預言」です。アドベントを迎える私たちは、救い主の到来を待ち望みながら、この預言がどのようにイエス・キリストによって実現したのかをあらためて心に刻みたいと思います。

 預言者ゼカリヤは、「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ」と呼びかけました。これは、神がご自身の民に対して「喜びなさい」と命じるほどの確かな救いが始まろうとしているという宣言です。その理由は、「あなたの王が来られるから」です。この王は正しく、しかも救いを携え、驕り高ぶる支配者ではなく、「ろばに乗って」来られる謙遜な王だと預言は語ります。

 人々は力強い王を待っていましたが、神は人の期待とは違う姿で救い主を送られました。イエス様がエルサレムに入城されたとき、まさに預言どおり、ろばに乗って来られたのです。その姿は、武力によってではなく、へりくだりと愛によって世界を治めるメシアの姿でした。

 ゼカリヤの預言はさらに、「戦車を絶ち、弓を断ち、諸国に平和を告げる」と語ります。イエス・キリストはまさに平和の王であり、敵を力で制するのではなく、十字架でご自身の命を捧げる愛によって人類を神に和解させてくださいました。その愛は今も私たちを包み、壊れた心を癒し、希望を与える力です。

 アドベントは、単なる「待つ期間」ではありません。神の救いがすでに始まっていることを確認し、その恵みの中で生きることを思い起こす時です。私たちは今、不安や争い、先の見えない状況の中で暮らしていますが、イエス様が平和の王であることを思うとき、私たちの心にも静かな光が差し込みます。

 この方は、私たちが弱さや孤独の中にあっても見放さず、そっと寄り添う王です。力ある者ではなく、小さくされた者、涙する者のそばに立ってくださる王です。だからこそ私たちは、この王を信頼し、今日の生活のただ中でその平和を実践する者とされていきたいと思います。救い主は宮殿ではなく飼い葉おけに、小さく静かに来られました。それは弱さに寄り添うためです。だからアドベントは、心を静め、小さな光に気づく時なのです。今も預言は語ります。「あなたの王が、あなたのところに来る。」恐れず、この王を心に迎えましょう。

2025年11月23日
説教題 「主が共におられるので」
聖書箇所 民数記13章25節~14章10節
説  教 安井 光 師

 イスラエルの民は約束の地カナンの目前に来ました。十二人の偵察隊が40日間土地を調査し、大きな果実を携えて戻り、「まことに乳と蜜の流れる地でした」と報告しました。主は今日も、信じる者のために天の御国という永久の住まいを備えておられます。主イエスは「あなたがたのために場所を用意する」(ヨハネ14:2)と約束され、使徒ヨハネはその素晴らしさを証ししています(黙示録21章)。

 ところが偵察隊は喜びの報告の後、カナンの住民は強大で町は堅固であり、とても勝てないと告げ、悪い噂を広げました。民は恐れに囚われ、「エジプトへ帰ろう」とまで叫び、夜通し泣きました。現実の困難を思えば理解できる面もありますが、主は彼らに信仰を求めておられたのです。

 ただし偵察隊全員が不信仰に陥ったのではありません。ヨシュアとカレブの二人は信仰の視点から民を励まし、「ぜひ上って行くべきです。そこを手に入れましょう」と語りました。さらに、「私たちには主が共におられます。彼らを恐れてはなりません」と語り、民を励ましました。信仰とは、現実を見ないことではありません。主がどのように見ておられるかを思いつつ、現実の中で主に目を注ぐことです。トリックアートが見る角度によって全く違って見えるように、十二人は同じものを見て、十人は恐れを、二人は主への信頼を見たのです。

 民は二人の言葉を受け入れず、石で打とうとしました。主はイスラエルの不信仰を怒られ、御言葉に従わなかった者たちは約束の地に入れず、イスラエルの民は40年間荒野を放浪することになりました(14:21∼)。私たちの信仰生活も荒野の旅に重ねられることがありますが、イスラエルの不信仰を仕方ないと安易に自分に当てはめるべきではありません。ヘブライ書の著者はこの出来事を踏まえつつ、「福音を信仰によって聞く」者こそ安息に入ると語ります(ヘブライ4:1∼3)。ヨシュアとカレブがそうであったように、私たちも主の御言葉を信仰をもって受け取り、主が約束しておられる安息へと入らせていただきましょう。

 「私たちには主が共におられます」。ヨシュアとカレブが語ったこの励ましの言葉は、今の私たちにも与えられています。主が共におられるからこそ、私たちは困難を乗り越え、戦いに勝利し、約束の地へと進むことができます。恐れに心を支配されるのではなく、主を信頼し、主の御言葉に従って前進していきたいと思います。主は必ず道を開き、私たちを備えられた祝福へと導いてくださいます。

2025年11月16日
説教題 「助け主と共に生きる」
聖書箇所 ヨハネによる福音書16章1~15節
説  教 安井 光 師

 私たちは皆、イエスの証し人として生きるように召されています。しかし日本社会において信仰を公にし、イエスを証しして生きることは容易ではありません。迫害や孤独を伴う歩みがあります。主イエスは私たちがつまずかないように、弟子たちが直面する困難を前もって告げ、同時に「助け主」である聖霊が共にいて助けてくださると約束されました。

 イエスは「この世はあなたがたを憎む」と予告され、会堂から締め出されるほどの迫害を受けることも語られました。使徒言行録に記される初代教会の迫害はその成就です。しかしイエスが前もって語られたので、弟子たちは覚悟を与えられ、恐れの中にも希望を持つことができました。ペトロも迫害の只中で「火のような試練を驚き怪しむな」と語っています(Ⅰペトロ4:12∼)。主の言葉が彼を支えていたのです。

 私たちも家族や友人の救いのために祈る中で、拒絶や冷たい態度に心が痛むことがあります。ある姉妹は夫から「キリストを取るか私を取るか」と迫られましたが、祈りつつ仕え続けた結果、夫も信仰へ導かれました。主は私たちの痛みを知っておられます。

 イエスは「私が去って行くのはあなたがたのためになる」と語られ、天に昇られて後に聖霊が遣わされました。聖霊が来られることで弟子たちは真理を悟り、大胆な証し人へと変えられます。ペンテコステには三千人が救われ、福音は世界に拡がりました。もしイエスが去られず聖霊が来られなかったなら、福音は広がらず、日本にも届かなかったでしょう。イエスの昇天は、実に祝福の始まりだったのです。

 「弁護者=助け主(パラクレートス)」である聖霊は、私たちの傍らに立ち、励まし、支え、倒れそうな時に立たせてくださる方です。罪人の友であり、戦いの中で勝利へ導かれるお方です。聖霊は、復活の主イエスご自身の霊として、世の終わりまで共におられるのです。

 聖霊は「罪・義・裁き」について世の誤りを明らかにします。罪とはイエスを拒むこと、義とは十字架と復活によってイエスが神の子であると証明されたこと、裁きとはサタンがすでに敗北したことです。これらを悟らせるのが真理の霊である聖霊です。

 弟子たちは当初イエスの語ることを理解できませんでしたが、聖霊によって真理に導かれ、確信を与えられました。私たちも同じです。聖霊が心に確信を与えてくださる時、恐れの中でも主を証しして生きる力が与えられます。助け主なる聖霊は今日も私たちを導き、支え、証し人として立たせてくださいます。

2025年11月9日
説教題 「一緒に城壁を直そう」
聖書箇所 ネヘミヤ記2章1~8、20節
説  教 安井 直子 師

 昔、イスラエルの国は戦争に負け、多くの人が遠いバビロンに連れて行かれました。長い年月のあと、少しずつ人々はエルサレムに帰れましたが、町は荒れ、城壁は壊れ、門は焼かれたままでした。ネヘミヤはそのころ、まだ外国に残り、王さまの大切な仕事をしていました。王からとても信頼されていたのです。

 エルサレムの様子を伝える人たちの話を聞いたネヘミヤは深く悲しみ、何日も泣きながら神さまに祈りました。「神さま、どうか私たちを助け、罪をゆるし、もう一度あなたの民として立ち上がらせてください」。ネヘミヤの祈りは自分のためではなく、みんなのためのものでした。

 ある日、王さまはネヘミヤの顔を見て「どうしたのだ?元気がないようだが」と声をかけました。そのときネヘミヤは勇気を出して王さまに言いました。「エルサレムの町は壊れたままです。城壁を立て直すために行かせてください」。王さまは「よろしい、それでは行って来なさい」と言い、材料や手紙も整えて送り出してくださいました。神さまはネヘミヤの祈りに応え、道を開かれたのです。

 エルサレムに着いたネヘミヤは夜、ロバに乗って城壁のまわりを見て回り、心に誓いました。「何としても神さまの町を立て直す」。翌日、ネヘミヤは人々を集めて言いました。「町は荒れていますが、神さまが私をここに送ってくださいました。神さまの助けを受け、みんなで城壁を建て直しましょう」。人々は勇気をもらい、「そうだ、立ち上がろう」と応えました。こうして多くの人が協力し、神さまに守られながら工事を始めました。

 神さまは今も、祈る人、考える人、励ます人、手を動かす人、それぞれを用いて働かれます。教会でも家庭でも学校でも、みんなで助け合うとき、神さまは喜ばれます。神さまは「一人の力」ではなく、「みんなで一緒に働くこと」を望んでおられます。壊れて弱った場所にも、神さまは「そのままで良い」とは言わず、「もう一度立て直そう」と呼びかけます。そして、回復の中心には祈りがあります。ネヘミヤは悲しいときも、王さまの前でも、働きの途中でも祈りました。私たちも短く祈れます。「神さま、助けてください」「神さま、知恵をください」と。小さな祈りでも神さまは聞いてくださいます。私たちも、ネヘミヤのように立ち上がりましょう。家族を助けたり、友だちを励ましたり、教会で奉仕したり、兄弟姉妹のために祈ったり。小さな一歩が、神さまの大きな働きにつながります。神さまは今日も、私たちを用いて、ご自身の栄光を現してくださるのです。

2025年11月2日
説教題 「わたしもアンデレ~目立たない弟子」
聖書箇所 ヨハネによる福音書1章35~42節
説  教 ゲイリー・ホーガン 師
通  訳 高辻 美恵 姉

 アンデレは目立つタイプの弟子ではありませんでした。でも、彼は決定的な場面で、誰かをイエスさまのところへ連れていく役割を担っています。これは、ただ人柄が良かったからではなく、彼が主を信じる方向性をはっきりと持っていたからだと思います。人より前へ出るのではなく、主の許に人を連れていく。その姿勢です。救われた日、洗礼を受けた日。あの日、私たちの心の中には確かに「このお方こそ救い主だ」と分かる瞬間がありました。あの感動は一瞬のものではなく、いまも心の奥で灯火のように燃えています。信仰とは、あの火が消えないように、日々油を注ぎ続ける歩みでもあります。

 アンデレは主役ではありません。しかしイエスさまは、この忠実な裏方を重んじられました。五千人の給食の場面、アンデレは、パンと魚を持つただの少年を主の所へ連れて行きます小さなものでも、主の御手に置かれるとき、信じられないほどに増し加えられる。これは私たちの奉仕にも当てはまります。大きな力や特別な才能がある人だけが用いられるのではありません。普通の私、平凡な私、欠けている私。まさにその私を、主は必要としておられるのです。「私なんか」という思いで退く必要はありません。むしろ、小さな献げ物を大切にする神さまの心を思い起こすとき、私たちはもっと大胆に、もっと喜びをもって、主の前に身を差し出すことができるはずです。

 来年5月、愛媛県民文化会館で伝道大会が行われます。大勢が福音を聞くでしょう。しかし「連れて行く役割」を担うのは、壇上に立つ人ではなく、私たち一人ひとりです。教会に来られていない家族、友人、職場の仲間、近所の方。その中には、あなたにしか届かない魂があります。福音宣教は、牧師や宣教師だけの仕事ではありません。主は全ての信じる者に「行きなさい」と語られました。福音宣教は〝提案〟ではなく〝命令〟です。恐れがあっても、足がすくんでも、アンデレのように一歩を踏み出す。その一歩を主は祝福されます。たとえ一人であっても、心に名前を書き留め、祈り、機会を待ち、神さまの時を信じて歩むのです。

 小さな忠実は永遠に残ります。天に帰る日に「よくやった、忠実な僕よ」と言われるために、今日を生きるのです。神さまは日本を愛しておられます。松山を愛しておられます。そしてあなたを、主の働きのために今も招いておられます。どうか勇気をもって、名前を心に刻んで祈り、アンデレのように一人を主のもとへ導く生涯を歩みましょう。

2025年10月26日
説教題 「幕屋に満ちた神の栄光」
聖書箇所 出エジプト記40章34~38節
説  教 安井 光 師

 イスラエルの民が荒野を旅するうえで最も必要だったのは、神が共におられるという確信でした。雲が幕屋を覆い、神の栄光が満ちたとき、人々は神の臨在を確かに感じたのです。雲が動けば出発し、留まれば宿営しました。神ご自身が彼らのただ中におられ、導かれていたのです。

 出エジプトの出来事、紅海の奇跡、マナや水の供給、シナイでの契約、そして幕屋の完成。これらすべてが神の栄光の現れでした。しかし民は金の子牛を造って偶像礼拝の罪を犯します。モーセは「どうかあなたの栄光を私にお示しください」(33:18)と祈り、神は幕屋を造らせて臨在のしるしとされました。幕屋は、神が民のただ中に住まわれるという約束の象徴だったのです。

 やがて神は御子イエス・キリストを遣わし、この世に真の幕屋を張られました。「言は肉となって、私たちの間に宿った」(ヨハネ1:14)。イエスこそ神の栄光そのものであり、恵みと真理に満ちた神の現れでした(ヘブライ1:3)。イエスの姿が山上で変わり、顔が太陽のように輝いたとき、弟子たちはその神性を悟ります。しかもイエスが語られた「最後のこと(エクソダス)」とは、十字架の死と復活を通して成し遂げられる新しい出エジプト、すなわち罪と死からの解放でした。これこそ神の栄光の頂点です。

 今、神の栄光はどこに現れているのでしょうか。それはイエスを信じる一人一人の中にあります。私たちが救いにあずかった出来事そのものが神の栄光の現れです。神の愛、聖さ、正しさ、偉大さ、力、永遠性を私たちはそこに見ることができます。聖霊は日々の歩みの中で働き、私たちを照らし、神がどのようなお方かを教え続けておられます。

 パウロは「私たちは主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えられていく」(Ⅱコリント3:18)と言いました。神の栄光を仰ぐ者は変えられていきます。モーセの顔が神の輝きに照らされたように、神と共に歩む人の顔もまた光を帯びます。いきいきしたクリスチャンは、神の臨在に照らされて輝いているのです。礼拝や祈り、日々の出来事を通して神に出会うとき、私たちのうちに神の栄光が宿ります◆イエス・キリストは神の栄光に満ちた真の幕屋です。教会はキリストの体であり、キリストが満ちておられるところです。教会こそ神の栄光が満ちる場所であり、私たち一人一人も聖霊の宿る小さな幕屋です。私たちの存在を通して神の栄光が世に現れるのです(Ⅰコリント6:19∼20)。

2025年10月19日
説教題 「神の選びと目的」
聖書箇所 ヨハネによる福音書15章11~17節
説  教 安井 光 師

 イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」。弟子たちは自分が主を選び従ったと思っていましたが、実はイエスの側からの選びが先にありました。私たちも同じです。家族や友人の導き、あるいは人生の悩みを通して教会に来たとしても、それは主の恵みの選びによるものです。

 旧約では、神がイスラエルを「愛のゆえに」選ばれたと記されています(申命記7章)。パウロも「神が私たちを救ったのは、行いによらず恵みによる」と語りました(Ⅱテモテ1:9)。神の選びは人間の功績によらず、無条件の愛と計画によるものです。しかし神は強制される方ではありません。愛をもって招き、私たちの信仰の応答を待たれるのです。信仰とは、神の選びに「はい」と応えることです。

 では、神は何のために私たちを選ばれたのでしょうか。イエスは「行って実を結び、その実が残るように」と言われました。選びには目的があります。それは実を結ぶことです。ヨハネ15章前半でイエスは「私はまことのぶどうの木」と語られました。枝である私たちが主にとどまるとき、「愛、喜び、平和…」といった御霊の実が結ばれます(ガラテヤ5:22)。それは私たち自身のためではなく、神の栄光を現すためにあります。

 「行って実を結び」とは、主が遣わされる場所で証しし、他の人をも主の愛へ導くことです。ビリー・グラハム師は世界中で福音を語りましたが、「大衆伝道ではなく、大規模な個人伝道を信じる」と語りました。主に選ばれた一人一人が、身近な人のために祈り、証しすることこそ主の望みです。イエスが言われる「実」は単数形で、ひとつの実が次の実を生み、残っていくことを示しています。実を結ばせるのは聖霊です。私たちは主にとどまり、御言葉に生きるときに実を結ぶのです。

 この言葉は、イエスが十字架にかかられる前夜に語られました。「互いに愛し合いなさい」との命令に挟まれており、選びの目的の中心は「愛」であると分かります。イエスは弟子たちを「友」と呼び、彼らのために命を用いられました。私たちもまた、愛する者のために命を「使う」よう召されています。

 イエスは「この囲いに入っていない羊をも導かなければならない」と言われました。主の愛は私たちの外にも向けられています。主は私たちを選び、愛をもって遣わされます。「あなたがたが行って実を結び、その実が残るように」。御言葉に応えて、主の愛のうちにとどまり、その使命に生かされてまいりましょう。

2025年10月12日
説教題 「霊によって歩む」
聖書箇所 ガラテヤの信徒への手紙5章16節
     ローマの信徒への手紙8章14~15節
説  教 篠崎 和 師

 パウロは、霊(聖霊)によって歩む者は霊の実を結ぶと語ります。「霊によって歩む」とはどういうことでしょうか。

 第一に「神の子どもとして歩む」ことです。ローマ8章は、「神の霊に導かれる者は神の子」であると教えます。神の子として生きるとは、恐れに支配された奴隷のように「神に見捨てられるのでは」と怯えるのではなく、父なる神の愛のまなざしの中で安心して生きることです。園児が親の顔を探し、見つけて笑顔になるように、神はいつも私たちを見つめておられます。私たちはその愛のまなざしに守られ、神の子として歩むのです。どんな時も、神は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者だ」と語りかけておられます。この確信のうちに歩むことこそ、聖霊によって歩む生活の第一歩です。

 第二に「聖霊に導かれて歩む」ことです。霊に導かれるとは、人生の主体が「私」ではなく「聖霊」であるということです。聖霊が私たちの人生の責任を負い、すべてを導いてくださいます。失敗や弱さの中にも神の計画と導きが働いていることを知るとき、私たちは心に平安を得ます。自分で人生をコントロールしようとする時、重荷に押しつぶされますが、聖霊に信頼して委ねる時、心に余裕と平安が生まれます。私たちの歩みは偶然ではなく、すべてが御霊の確かな導きの中にあります。聖霊の導きを意識しながら生きることで、日々の生活が祝福に満ちたものとなるのです。

 第三に「聖霊に導かれて生活する」ことです。「霊的なこと」と「霊的でないこと」を区別するのではなく、生活のすべてが聖霊の導きの中にあると知ることが大切です。聖書を読む時も、家事をする時も、働く時も、遊ぶ時も、すべての瞬間に聖霊は共におられ、導いてくださっています。信仰生活とは、日常の一つひとつの出来事を通して、神の臨在に気づかされていく歩みなのです。私たちの何気ない毎日の行動も、聖霊によって意味あるものに変えられていきます。

 ある母親が赤ん坊の世話で祈る時間も取れず悩んでいた時、牧師は「授乳そのものがあなたの霊的な行いです」と語りました。神の臨在を意識し、今していることを心を込めて行うとき、それが聖霊によって生かされた生活になるのです。

 「霊によって歩む」とは、特別な行為ではなく、日常のただ中で神の愛のまなざしを覚え、聖霊の導きを信頼して生きることです。その時、聖霊は私たちの内に「愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制」という実を結ばせてくださるのです。

2025年10月5日
説教題 「実り豊に生きる」
聖書箇所 ヨハネによる福音書15章1~11節
説  教 安井 光 師

 イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と語られました。旧約ではイスラエルが「ぶどうの木」に譬えられ、神は良い実を期待して手を尽くされたにもかかわらず、悪い実を結びました(イザヤ5章)。神は良いものとして人を造られましたが、人は神を離れ、自分中心に生きるようになり、結果として破壊と争いを生み出しました。そんな人間を滅ぼすことではなく救うために、神は御子イエスを「まことのぶどうの木」としてこの世に遣わされたのです。イエスはご自身が良い実を結ぶだけでなく、私たちにも良い実を結ばせてくださるのです。

 イエスは「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われます。枝が幹に接ぎ木されているように、私たちは十字架の贖いによってイエスに結び合わされたのです。イエスの裂かれた体と流された血によって、私たちはイエスにつながれたのです。「つながっていなさい」と訳される言葉(メノー)には、「とどまる」「宿る」という意味があります。イエスは「わたしにとどまりなさい。わたしの愛にとどまりなさい」と語られました。それは一時的な関係ではなく、永続的な愛と交わりの関係です。父がイエスを愛されたように、イエスも私たちを愛し、私たちがその愛に生きることを願っておられます。

 イエスにつながっていれば必ず実を結びます。主は「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と約束されました。実を結ぶ力は私たち自身にあるのではなく、ぶどうの木であるイエスから命の供給を受けていることにあります。私たちがイエスにとどまるとは、主の御言葉にとどまることです。御言葉は霊の糧であり、そこから命を受けて成長し、実を結ぶのです。父なる神は、私たちがより豊かに実を結ぶように、試練や出来事を通して信仰を清めてくださいます。

 では「実」とは何でしょうか。ガラテヤ5章22~23節にある「御霊の実」がそれを示しています。中でも「愛」「喜び」「平安(平和)」はイエスが特に強調されたものです。イエスにとどまるとき、私たちは神と隣人を愛し、困難の中でも喜びを見出し、どんな状況でも平安を保つことができます。これらの実は私たち自身の努力や徳によるものではなく、イエスとの交わりによって自然に結ばれていくものです。

 主イエスの愛にとどまり、御言葉にとどまり、主イエスに信頼して歩むとき、私たちの人生は実り豊かにされます。主の愛と恵みに根を下ろし、主につながって実り豊かに歩ませていただきましょう。

2025年9月28日
説教題 「神と共に生きる人生」
聖書箇所 詩編90編1~12節
説  教 安井 光 師

 召天者記念礼拝は、すでに天に召された兄弟姉妹や家族を覚え、その生涯を導かれた主を礼拝する時です。そして今を生きる私たち自身も、やがて天に召されることを思い起こす時でもあります。聖書で「人」と訳される言葉には「顔を上に向ける者」という意味があります。人は天を仰ぎ、神に心を向けて生きる存在なのです。

 詩編90編は「神の人モーセの祈り」と題されています。イスラエルを40年導いたモーセは、偉大な指導者でありながら人生の儚さを痛感していました。「我らのよわいは七十年、健やかであっても八十年」と語り、人生が吐息のように過ぎ去ることを覚えていたのです。現代は長寿社会ですが、長さよりも魂が安らぎ、心が満たされた日々こそ幸いな人生といえるでしょう。人生は「時の積み重ね」であり、有限であるからこそ重みがあります。

 モーセは人生の短さを見つめつつも、虚しさに沈んではいませんでした。天地を創られた神が目的をもって人を生かし、支配しておられると信じたからです。人は自ら生まれ生き死ぬのではなく、神によって生かされ、神によって人生を閉じられる存在です。だからこそ「我らの住まい」と呼ばれる主のうちに憩いを見出すことができました。教会もまた神の家であり、私たちにとっての安らぎの場です。召天者たちもその信仰に生きたのです。

 モーセが学んだのは「残りの日々を数える」ことでした。それは、神から与えられた人生を感謝して受け取り、一日一日を神と共に歩むことを意味します。人生には多くの出会いがありますが、決定的なのは神との出会いです。モーセ自身、80歳で神に召され、以後40年を神と共に歩み、使命に生きました。彼の人生が幸いであったのは長寿や功績によるのではなく、神と共に生きたからです。

 使徒パウロも同じです。彼はかつて教会の迫害者でしたが、復活の主に出会い人生が一変しました。「神の恵みによって、今の私がある」(Ⅰコリント15:10)と証しし、多くの苦難の中にあっても喜びと感謝に満ちた生涯を送りました。神と共に生きることで、虚しさではなく平安と希望に満たされたのです。

 私たちの人生にも労苦や災いがありますが、主が共におられるゆえに無意味ではありません。召天者たちがそうであったように、天を仰ぎつつ、日々を神と共に生きる者とされたいのです。主は終わりまで私たちを導かれます。主に信頼しつつ、一歩一歩を共に歩んでまいりましょう。

2025年9月21日
説教題 「福音を恥としない」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙1章8~17節
説  教 安井 光 師

 パウロは「私は福音を恥としない」と告白しました。彼にとって福音は全存在をかけて宣べ伝えるものであり、同時に自らを生かす力そのものでした。私たちもまず自らが福音に生かされているかを問い、確信を持つことが大切でしょう。

 パウロはローマを世界宣教の拠点と見るビジョンを持ち、熱望をもってローマに行こうとしました。その根底にあるのは、福音そのものへの信頼です。彼が「誇りとする」ではなく「恥としない」と語ったのは、当時の人々が十字架のキリストを愚かと見なしたからです。しかしパウロは「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(Ⅰコリント1:25)と訴え、迫害を受けてもなお、ローマの人々にこの福音を宣べ伝えようとしました。

 では、なぜ福音を恥としないのでしょうか。それは福音が「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」だからです。ここで「力」と訳された言葉「デュナミス」はダイナマイトの語源であり、爆発的な力を意味します。それは破壊ではなく、人を造り変え、生かす救いの力です。民族や文化の壁を越えて、すべての人に働く力です。私たちは救いの証しを自分自身や周囲のクリスチャンに見いだすことができます。変えられた姿こそ、神の力の現れです。

 パウロはローマの信徒の信仰を「世界中に語り伝えられている」と称賛しました。彼らの証しが福音の力を示していたのです。私たちもまた福音を信じることによって同じ力を受けています。たとえ実感が薄いと感じても、神の力はすでにすべての信徒に等しく働いています。それは「義とされる」というかたちで現れます。神は御子イエスに私たちの罪を負わせ、十字架において裁きを下されました。私たちは赦され、神との交わりを回復する者とされたのです。

 この救いは、信仰によって始められ、信仰によって導かれ、信仰によって完成に至るとパウロは言います。「正しい者は信仰によって生きる」とのハバクク書2:4の言葉は、自分の力を誇らず神に信頼して歩むことを意味します。その時、救いの素晴らしさが具体的に表れます。私たちはパウロほど熱心でなくとも、福音を証しするように召されています。証しの機会や力は聖霊が備えてくださいます。必要なのは神に自らを委ね、私を用いてくださいと祈ることです。

 イエス・キリストの福音に示された神の愛と義と力は、山よりも高く、海よりも深いものです。それは人を新しく造り変える力であり、私たちはその恵みをさらに味わい、喜びをもって宣べ伝えてまいりましょう。 

2025年9月14日
説教題 「バルテマイの癒し」
聖書箇所 マルコによる福音書10章46~52節
説  教 安井 直子 師

 イエス様と弟子たちがエリコを出てエルサレムへ向かう時、道端に盲人バルティマイが座って物乞いをしていました。彼は目が見えず、人々の施しに頼るしかありませんでした。彼にとって人生は暗闇そのものでしたが、通り過ぎる人々の会話を必死に聞き取っていました。そこに「ナザレのイエスが通られる」との知らせを聞いた時、心は大きく揺さぶられました。噂に聞いていた救い主が、今まさに自分の前を通られる。彼はすぐに「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫びました。

 周囲の人々は彼を叱り、黙らせようとしました。しかし彼は諦めず、むしろますます大声で「ダビデの子よ、私を憐れんでください」(48)と叫び続けました。人々の冷たい視線の中でも、彼の信仰は押しとどめられず主を求め続けました。ここに祈りの姿勢の大切さが示されています。妨げがあっても、神に向かって心を注ぎ出すことが信仰なのです。

 イエスは声を聞き立ち止まり、「あの人を呼んできなさい」と命じられました。人々は「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」と伝えます。するとバルティマイは上着を脱ぎ捨て、跳び上がってイエスのもとに進み出ました。彼にとって上着は生活の唯一の財産であり、夜には身を覆う命綱でした。それを投げ捨ててまで主に進み出た姿は、決意と信頼を物語っています。信仰とは、自分の拠り所を手放してでも主にすがる姿勢です。

 イエスは「何をしてほしいのか」(51)と問いかけられました。バルティマイは「先生、また見えるようになることです」と率直に願いを告白しました。隠さず飾らず、自分の最も深い必要をそのまま主に差し出したのです。その信仰に対してイエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と宣言されました。その瞬間、彼の目は開かれ、光が差し込み、新しい人生が始まりました。そして彼は癒されただけでなく、イエスに従って道を進んでいったのです。

 癒しを受けた後も自分の道に戻らず、イエスと共に歩みました。信仰は願いの実現で終わらず人生を主に委ねていくことです。

 私たちも暗闇や不安に直面します。孤独を味わうこともあります。しかし主は必ず立ち止まり、私たちの叫びに耳を傾けてくださいます。必要なのは、バルティマイのように諦めずに主に願い、すべてを委ね従う信仰です。

2025年9月7日
説教題 「福音に召された人」
聖書箇所 ローマの信徒への手紙1章1~7節
説  教 安井 光 師

 ローマ書は使徒パウロによって書かれました。冒頭の挨拶には差出人パウロ、受取人ローマの信徒たち、内容イエス・キリストの福音が示されています。直接の読者はローマの信徒ですが、これは今を生きる私たちにも語られています。パウロは自らが福音により使徒として召されたことを語り、私たちもまた福音により聖なる者として召されたことを示しています。

 パウロは「私はキリスト・イエスの僕であり、使徒として召され、神の福音のために選び出された者」と自己紹介しました。ローマ市民であった彼があえて「僕=奴隷」と言うのは、かつて律法や罪の奴隷であった自分が、キリストに捕えられ、真の自由を得たからでした。パウロは「神の福音のために」選ばれ、召されました。これは彼の志によるのでなく、「神の恵みによって、今の私がある」と告白するように、神の恵みによるものです。キリストご自身が僕の姿をとり十字架に命をささげられ、パウロを主の僕・使徒として召されたのです。

 挨拶の途中、パウロは情熱を抑えきれず福音について語り始めます。「この福音は御子に関するもの」であり、旧約聖書を通して約束された救いがイエスにおいて成就したと述べます。御子は「肉によればダビデの子孫として」生まれ、「霊によれば復活によって力ある神の子」と明らかにされました。つまり福音とは、神の御子が人となり十字架に死に復活されたイエス・キリストその方ご自身です。福音書は、イエスと出会った人々の記録です。私たちもまたアンデレのように(ヨハネ1:41)、イエスを人々に紹介しようではありませんか。

 7節にあるように、ローマの信徒は「神に愛され、聖なる者として召された人々」でした。彼らは直接イエスに会ったのではなく、御言葉を通して召されました。異邦人もユダヤ人も、自力で神のものにはなれません。ただ神に召され、イエスに属する者とされるのです。彼らが「神に愛され、聖なる者として召された」のは、イエスの十字架の贖いによるのです。私たちもまた同じです。

 ビリー・グラハム師は、「キリストを信じると新しい使命が与えられ、人を自分のためではなく、何ができるかと見られるようになる」と語りました。私たちも福音に召された者として、新しい使命―福音を分かち合う使命―を与えられています。召しとは目的をもって名を呼ばれることです。主が私たちを呼ばれたように、隣人を招くためにも私たちを用いられます。福音に召された者として、福音を分かち合い、福音に生かされましょう。

2025年8月31日
説教題 「偶像から身を守りなさい」
聖書箇所 出エジプト記32章1~14節
説  教 安井 光 師

 モーセは、イスラエルが神の民としてどのように歩んでいけばよいかを、詳しく神に聞くためにシナイ山に登りました。民はモーセがなかなか帰ってこないので不安に思い、「私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってください」とアロンに願いました。アロンは民から集めた金の耳輪で子牛の像を造り、これが「あなたの神だ。これがあなたをエジプトから導き上ったのだ」と言い、祭壇を築いて礼拝しました。主なる神はその様をご覧になり、激しい怒りを覚えられたのです(9∼10節)。

 主は偶像礼拝の罪を戒めておられます(十戒)。日本は偶像礼拝の温床のような状況にあります。偶像とは神社仏閣に奉られている仏神のみならず、人間が造りだしたもので、まことの神以上に重んぜられ、信頼と崇拝の対象となっているものを指します。しかしそれらは神ではなく、神となることはできません。まことの神は人間の手で造り上げられるものでなく、人間を造り、万物を創造されたお方だからです。イスラエルの民は自分たちにとって都合の良い神、自分たちの思い通りにしてくれる神を求めましたが、私たちも似たようなことをしてしまうものではないでしょうか。

 主なる神はご自分の民であるイスラエルが金の子牛を造り、自分たちの神として拝んだのを深く悲しまれ、怒りを発せられました。この「かたくなな民」にさばきを下し、断ち滅ぼすとモーセに告げられました。モーセは必死になって、民の犯した罪の赦しを願い、執り成しの祈りを主にささげました(11∼13節)。主は、「民に下すと告げた災いを思い直された」のでした。モーセは民の罪の赦しのためなら、自らが滅びても構わないとさえ考えていたのです(30∼32節)。使徒パウロも同胞が救われるためなら、自らがキリストから引き離されることさえ望みました(ローマ9:1-3)。彼らの心には、滅び行く魂に対する憐れみと救霊の情熱がありました。

 主は罪を憎まれ、罪を罰せられるお方です。しかし主に逆らい偶像礼拝に陥っている私たち人類を滅ぼさないで、その罪を贖うためにご自分の大切なひとり子イエスを十字架でさばかれたのです。イエス・キリストは、神に逆らう全人類の罪の赦しを願い、十字架上で祈りをささげ、ご自身の死をもって完全な執り成しをしてくださったのです。それは、私たちが偶像礼拝ではなく、唯一のまことの神を礼拝するため、主と顔と顔を合わせて、愛の交わりの中に生きるためなのです(Ⅰヨハネ5:18∼21)。

2025年8月24日
説教題 「あなたの名を呼ばれる神」
聖書箇所 ルカによる福音書19章1~10節
説  教 安井 巌 師

 ザアカイの物語は、教会で繰り返し語られてきた愛される箇所です。なぜ何度聞いても新鮮なのか。それは聖書が「私たち自身の物語」として響くからです。ザアカイにイエスが出会われたように、今ここで聖書を聞く私に主が出会い、語りかけてくださると信じるからです。

 ザアカイは「徴税人の頭で金持ち」でした。ローマ帝国の支配下で同胞から税を取り立て、不正も許されていたため、人々から憎まれ、差別されていました。その背景には「背が低かった」という事実があります。幼い頃からの劣等感や嘲笑、差別が彼を頑なにし、権力と金で人々を見返そうとする生き方へと駆り立てたのです。しかし、そうして地位や財を得ても心は満たされず、孤独と虚しさを抱えていました。

 だからこそ、自分の町に来られたイエスを一目でも見たいと強く願い、人目をはばからず木に登りました。噂に聞く「罪人の仲間となって食事をしてくださる方」を確かめたかったのです。すると驚くべきことに、イエスの方からザアカイに近づき、「急いで降りて来なさい。今日はあなたの家に泊まることにしている」と呼びかけられました。ザアカイはその言葉に引き込まれ、喜んでイエスを迎え入れました。

 ここに救いの本質があります。救いは人の努力や準備によってではなく、神の「あなたを救わなければならない」という決意によって与えられるのです。ザアカイはその御心に捕らえられ、人生が180度変えられました。彼は自らの罪を認め、財産の半分を貧しい人に施し、不正に得た分は四倍にして返すと宣言しました。頑なだった心が、神の愛に打ち砕かれて柔らかくされた瞬間です。

 周囲の人々は「罪深い男のところに泊まった」とつぶやきました。しかしまさにその罪人を救うためにイエスは来られたのです。問題は彼らが自らをも罪人として認められず、イエスに招かれる必要を感じなかったことでした。

 ザアカイの物語は、私たち自身の姿を映す鏡です。人から差別され、拒まれる経験は誰にもあり、私たちもまた心を頑なにして壁を築き、孤独に陥ります。しかしイエスはその壁を破り、名を呼んでくださいます。「あなたの家に泊まる」と迫ってくださるのです。そのとき、私たちが真に求めていた喜びは、地位や成功ではなく、主を迎え入れることそのものだったと気づかされます。

 主は私たちに語られます。「あなたを愛し、救わなければならない」と。私たちがその呼びかけに応え、喜んで主を迎え入れるとき、新しい人生が始まるのです。

2025年8月17日
説教題 「平安をもたらす弁護者」
聖書箇所 ヨハネによる福音書14章15~31節
説  教 安井 光 師

 「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない」と語られたイエスの言葉は、弟子たちの不安に満ちた心を照らす希望の光でした。イエスは、「もう一人の弁護者」、すなわち聖霊を父なる神に願い、遣わされると約束されます。弁護者とは、「傍らに呼ばれた者」、助け手であり慰め主であり、執り成し手です。イエスが共にいてくださったように、聖霊が永遠に私たちと共にいてくださるのです。

 この約束は、イエスを信じるすべての者に与えられた恵みです。目には見えない聖霊は、しかし確かに私たちの傍らに、あるいは心のうちに住んでくださいます。そして、私たちがイエスの言葉を思い起こし、真理を理解し、信じる信仰に生きることができるよう導いてくださいます。

 私たちは聖書を読み、説教を聞くとき、心が熱くなる経験をすることがあります。それは聖霊の働きによるのです。聖霊は御言葉を開示し、私たちにイエスの愛と救いを深く悟らせてくださいます。イエスが語られた「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めも、聖霊が私たちの内に住まわれることで真実に受け入れられ、実行されていくのです。

 私自身、人生のある時期に挫折し、将来が見えなくなったことがありました。不安と孤独の中で与えられたのは、「それは災いではなく、平安を与える計画だ」という御言葉でした(エレミヤ29:11)。その時私は、神が私にも計画を抱いておられることを知り、自分が独りではないことを知らされました。見えないけれど確かにおられる神の霊が、私の内に働いておられたのです。

 イエスは、私たちに「平和を与える」と言われました。それは、世の与える一時的な安心ではなく、神との和解によってもたらされる真の平和(平安)です。この平安は、たとえ困難や苦しみの中にあっても、私たちを支え、揺るがない安らぎを与えます。8月というこの時期、私たちは平和の大切さをあらためて思い起こします。しかし本当の意味での平和は、ただ戦争がないことではなく、神と和解し、隣人と愛し合う関係の中にあるのです。

 私たちはこの世に生きている限り、不安や恐れと無縁ではいられません。サタンはさまざまな方法で私たちの心を脅かそうとします。しかし、イエスは「心を騒がせるな。おびえるな」と言われます。聖霊が、今も私たち一人一人の内に住んでくださり、日々の歩みを支えてくださいます。「立て。さあ、ここから出かけよう」とイエスは語られます。今週もまた、聖霊に助けられ、イエスに従って歩み出していきましょう。

2025年8月10日
説教題 「広い道を歩こう」
聖書箇所 ヨハネによる福音書14章5~7節
説  教 安井 聖 師

 ヨハネ14章6節で、主イエスは「わたしは道である」と語られます。この言葉は単なる道案内ではなく、ご自身が私たちの歩む道そのものであるという深い意味を持っています。人生の中で迷いや不安を感じる時も、どんなに辛い状況でも、私たちは確かに主イエスという広い道の上を歩んでいます。この道は幅広く、例えるなら幅100メートルもあるような安心して通れる道路のようです。時には私たちが迷い、逸れてしまったと感じても、主イエスの道の外に出ることは決してありません。主は「わたしという道はそれほど広い」と、変わらぬ愛で私たちに語りかけておられます。

 また、「私を通らなければ誰も父のもとに行くことができない」という言葉は、道が狭く限定されているように見えるかもしれません。しかし父なる神はこの世界を支配し、私たちを深く愛しておられるお方です。その父のもとに至る唯一の道である主イエスは、一本の道でありながらも果てしなく広く、深い愛の道なのです。

 弟子のトマスは主イエスの死を予感して「どこへ行かれるのか分からない」と不安を漏らしました。すると主は「あなたがたはすでに父を見た」と答え、信仰が弱く揺れても「あなたはわたしの中を歩いている」と励まし続けてくださいます。私たちの信仰がどんなにおぼつかなくても、主は決して私たちを見放さず、常に道の中にあることを約束してくださっているのです。

 またペトロは、主の言葉に驚きながらも自身の裏切りを知らされますが、主は「今はついて来ることはできないが、後でついて来る」と約束されました。最も遠ざかった時でさえ、ペトロは主の道の中にありました。私たちも同じように、どんなに罪深く弱くても、主は私たちを決して見捨てず、その広い道の中にしっかりと包み込んでくださいます。

 ドイツ・マイセンの磔刑像には、主イエスが両手を前に差し出し、「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」と刻まれています。十字架の死を通して、主は私たちすべてを自らのもとに招き、どんなに罪深い者であっても愛で包み込んでくださっているのです。

 私自身も子どもの頃、罪深さや死への恐れに苦しみましたが、父なる神の愛と主イエスの十字架の赦しを知り、心が軽くなりました。これからの罪さえも赦されていると信じ、今もこの広い主の道を歩んでいます。私たちはみな、この限りなく広い愛の道の中で生かされ、支えられているのです。

2025年8月3日
説教題 「心を騒がせてはならない」
聖書箇所 ヨハネによる福音書14章1~14節
説  教 安井 光 師

 「心を騒がせてはならない」。これは最後の晩餐の席でイエスが弟子たちに語られた言葉です。弟子たちはイエスから裏切りを予告されるとともに、イエスが自分たちの側からいなくなり、どこか遠くへ行ってしまうのではないかと思い(13:31∼38)、心を騒がせていたのです。想定外の状況に置かれると、私たちは心を騒がせてしまうものです。イエスは弟子たちに十字架の死と復活を予告してこられましたが、弟子たちはそれらのことを悟らずにいたのです。

 人は自分の計画が崩れ、目標が分からなくなると不安に陥ります。イエスは人間の不確かな計画ではなく、神の確かなご計画と目標に弟子たちを導こうとしておられました。そのためにエルサレムに上り、十字架で死のうとしておられました。それは弟子たちにとって想定外のことでしたが、イエスは弟子たちのために天に永遠の場所を用意されるとともに、多くの人がそこに至るための道となろうとしておられたのです(6節)。

 神は旧約の民に対して、ご自分の示す道を歩むように命じてこられました(申命記5:33)。それは彼らが幸いを得、命を得るためでした。イエス・キリストこそ、神がこの世にお与えになった真の命を得させる道なのです(ヨハネ3:16、6:40)。道は踏みつけれることによってできますが、イエスは人に踏みつけられるようにして十字架で死なれ、私たち罪人を滅びから救い、天の御国へと導き入れるただ一つの道となられたのです。

 私たちもイエスの弟子であります。私たちはイエスに従う者となり、今日を迎えています。信仰生涯においては心を騒がせることがあるでしょう。イエスがどこにおられるのか、また神の御心が分からなくなることがあります。トマスやフィリポが抱いたような問いや訴え(5、8節)が祈りとなりイエスに投げかけるでしょう。主が目の前におられ、耳に聞こえるように語りかけて下さるなら、満足できるのに…と思うことがあるかもしれません。主は私たちに御言葉と御業を示されるのです(9 ∼11節)。

 イエスは「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい」と私たち弟子たちに言われます。私たちはイエスの御言葉を信じ、十字架と復活の御業を信じ続けたいと思うのです。イエスは天の御国への道であるとともに、信仰の導き手として私たちと共に歩んでおられます。

2025年7月27日
説教題 「キリストが形づくられる」
聖書箇所 ガラテヤ人への手紙4章12~20節
説  教 安井 光 師

 聖書は、私たちが「神のかたち」として造られた者であると語っています。しかし罪によってこのかたちは損なわれました。神は御子イエス・キリストによって私たちを贖い、新しく造り変えてくださったのです(Ⅱコリント5:17)。今も神は、私たちの内に「キリストを形づくる」という恵みの御業を進めておられます。

 パウロはガラテヤの信徒に「私のようになってください」と呼びかけます。それは自分のように強く立派な人間になりなさいというのではなく、「キリストの恵みに留まり、信仰によって歩んでほしい」という願いからでした。パウロ自身、肉体の病を抱え、弱さを覚えながらも、キリストの恵みに生きていました。ガラテヤでの伝道のきっかけも、彼が病を患っていたことにありました(14節)。病により衰えた姿で語られた福音を、彼らは拒まず、むしろキリストのように迎え入れたのです(15節)。ガラテヤの信徒たちは、パウロの強さではなく、弱さの中に働くキリストの福音を信じて救われていたのです。

 パウロは第二コリント書12章7∼10節で、自らの弱さを「棘」と呼び、それを取り除いてくださいと主に何度も祈ったことを告白しています。主は「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ完全に現れる」と語られました。パウロはこの言葉を受けて、自分の弱さを誇りとし、主の力がその中に宿ることを喜びとするようにされたのです。

 私たちが救われたのは、強いからでも正しいからでもありません。むしろ、弱く、罪深い者だからこそ、恵みが注がれたのです。だからこそパウロは、「私のようになってください」と語るのです。それは、自分の力に頼らず、主の恵みに留まって生きること、自分の弱さの中にキリストの力が宿ることを受け入れることです。「キリストが形づくられる」とは、キリストが私たちのうちに住まわれ、私たちの存在を通してキリストご自身が現れてくださることです。私たちの外に現れるのは、自分の力ではなくキリストの力、恵みの輝きとなるでしょう。

 主は今も、私たちの内にキリストのかたちを築き続けておられます。パウロが産みの苦しみをもって願ったように、これはただの説教者の願いではなく、主ご自身の切なる思いです。主は私たちを神の子として形づくるために、十字架の苦しみを耐え抜かれました。私たちが試練や弱さの中にあっても、主の恵みと力は尽きることがありません。キリストが内に形づくられるために、私たちは自分の力に頼るのではなく、主の恵みに自らを明け渡してまいりましょう。